登録 : 2013.03.16 23:57 修正 : 2013.03.17 09:41

参戦記念碑と慰霊碑、そして恥ずかしさ

世界が反戦の波に覆われた時
韓国は戦時体制を確立した
インドシナで共産軍のタンクが
サイゴン・プノンペンに迫るにつれて
維新体制は理性を失っていった

米軍の代わりに5千人が死んだが
その渦中で一部は富を積み上げ
参戦軍人 全斗煥は政権を奪取して
以後両国は修交を結び
戦争は急速に忘れられた
しかしベトナムのある村では
今も虐殺の傷を抱いて暮らしている

 1973年3月20日ソウル運動場ではパウエル凱旋将兵歓迎大会が盛大に開かれた。 ‘駐ベトナム軍部隊復帰および解体に対する国防部一般行政命令第143号’が朗読された後、駐ベトナム韓国軍司令官イ・セホは陸軍士官学校同期の大統領朴正熙に駐ベトナム韓国軍司令部旗を返却した。 駐ベトナム韓国軍司令部帰国申告式および解体式を兼ねたこの日の大会には五色のアドバルーンから下げられた "越南(ベトナム)で戦った戦功は総力安保の礎石なろう" "勝って帰ってきた" などの垂れ幕が翻った。 漢城(ハンソン)女子高生は駐ベトナム韓国軍の戦闘場面と対民間診療の様子をカードセクションで披露した。 朴正熙は「昨日の平和十字軍が今日の維新十字軍、救国の十字軍になるようにしよう」と注文した。 帰国したパウエル将兵は歓迎大会を終えて雨の降る中でソウル都心4kmを徒歩で行進した。 それから2年1ヶ月が過ぎた1975年4月30日、共産軍のタンクは南部越南(ベトナム)の首都サイゴンの大統領官邸である独立宮に進入し、南部越南政府は無条件降伏を宣言した。 ベトナムの立場から見ればついに30年戦争が終わったことで、ベトナムに大規模兵力を派兵した朴正熙政権の立場から見れば‘越南(ベトナム)崩壊’の惨事が起きたわけだ。

数千ヶの金日成カカシが燃やされた

 インドシナ半島で共産軍の攻勢が強化され、共産軍がサイゴン(現在のホーチミン市)やプノンペンに数kmまで肉迫したという報道がほとんど毎日のように新聞に載せられた1975年序盤は韓国で反維新民主化運動が荒々しく起きた時であった。 ベトナムだけでなくクメール(カンボジア)やラオスなどインドシナ3国で共産軍のタンクがサイゴンやプノンペンに迫るにつれて維新政権は理性を失っていった。 4月8日には前日激烈なデモがあった高麗(コリョ)大学だけを対象に緊急措置7号を発動し休校令を下し軍隊を進駐させた。 最高裁はこの日、人民革命党事件など関連者38人に対する上告審判決でト・イェジョンなど8人に対する死刑を確定した。 これを報道した<東亜日報> 4月8日付記事の真下には共産軍が‘サイゴン11km肉迫’したという記事が載っていた。 朴正熙政権は刑の確定18時間後の午前4時から司法の仮面をかぶった未明の連続殺人を始めた。

 4月17日クメール政府は共産クメール ルージュ軍に降伏を宣言し、4月30日にサイゴンが陥落すると隣国ラオスの左右連立政府から右派は事実上没落した。(人民共和国正式樹立は12月3日)インドシナでドミノ理論が現実になる中で、朴正熙はすべての緊急措置の総合版と言える緊急措置9号を宣言して維新憲法に対する一切の批判と反対を禁止した。

 1972年朴正熙が維新クーデターを行う時は、決して危機状況とは言えなかったが、1975年は明らかに分断韓国にとって致命的な危機状況が存在した。 現実には存在しない危機も作って悪用してきた朴正熙は、このような危機状況を自身の権力強化の機会にした。 彼は中日戦争勃発以後、日本に‘戦時体制’が樹立されたように、1975年の韓国にも戦時体制を確立しようとした。 維新政権は戦時体制を法的に後押しするために<社会安全法案> <民間防衛基本法案> <防衛税法案> <教育公務員法改正案> <電波管理法改正案>等、いわゆる5大戦時立法案を強行処理した。 左翼活動をして転向し生き残った朴正熙の非転向者に対する劣等感と敵がい心が強く反映された<社会安全法>は刑期を全て終えても転向しなかった人々を裁判なしで継続監禁する悪法中の悪法だった。 また、朴正熙は1975年6月7日‘自主国防と総力安保’の旗じるしの下‘学徒護国団設置令’を公布して全国大学と高等学校の学生会を解体した。 学園に樹立された戦時体制を象徴する学徒護国団の師団長生徒や連隊長生徒は学生たちが選ぶのではなく総長や校長が任命した。

 1975年5月と6月、韓国社会では -甚だしくは休講中の大学街でも- 安保決起大会と金日成火刑式が随所で開かれた。 "ひっ捕まえろ金日成、打ちのめせ共産党、打ち破ろう北韓軍、成し遂げよう維新課題!" を声高に叫ぶ中で、全国で恐らく数千本の金日成カカシが火に焼かれただろう。 このような安保決起大会の絶頂は5月10日に汝矣島(ヨイド)5・16広場で開かれた‘総力安保ソウル市民決起大会’であった。 何と140万人(高校生だった著者ももちろん動員された)が参加したこの決起大会では男女20人余りが壇上に上がり「金日成野心粉砕しよう」などの血書を書いた。 このような安保決起大会熱風を問題にしたのが男装女として有名だった新民党のキム・オクソン議員だった。 キム・オクソンは10月8日国会対政府質問で戦争心理造成、いんちき民主主義制度、安定に対する約束などが強権統治の特徴というドイツの政治学者フランツ・ノイマンの理論を紹介しながら最近の安保決起大会を管制デモだと主張した。 彼は 「全国を揺るがした各種安保決起大会、民間防衛隊編成、学徒護国団の組織、軍歌普及、絶え間ない戦争威嚇警告発言、‘戦いながら建設しよう’というスローガンなどは国家安全保障を口実にした政権延長手段」に過ぎないとし、朴正熙の1人統治を正面批判するや国会には大騷ぎが起こった。 共和党と維新政友会がキム・オクソンの除名を推進するや金泳三はキム・オクソンを保護せずに辞退を勧めた。 男装の女傑キム・オクソンが涙ぐんで辞退すると新民党には鋭利なかみそりを同封した抗議の手紙が舞い込んだという。

 しばらく停滞していた長髪取り締まりは‘越南(ベトナム)崩壊’と共に急激に強化された。 文武両面で日本式皇民化教育をまともに受けた朴正熙は、若者たちの自由奔放な身なりと考え方を強く不快に思った。 維新時代、国民の容貌と思想は当然国家の統制対象だった。 維新王女であった朴槿恵(パク・クネ)大統領が初めて主宰した閣僚会議で最初に扱った案件が軽犯罪処罰法施行令だという事実は、今日にまで続く維新の濃厚な影を痛感させる。 過多露出を取り締まるということが、必ずしも維新時代のミニスカート取り締まりの復活を意味するという意味ではない。 私を絶望させるのは韓半島の緊張が極度に高まっていて、国内外に難題が山積しているのに、大統領になって一番最初にしたかったことが国民に対する統制だったのだろうか? その点に関する限り、維新の嫡統を受け継いだ政権であることに間違いない。 駐ベトナム韓国軍が維新の十字軍、救国の十字軍になれとの朴正熙の話を受けて、チェ・テミンが救国十字軍を作り、十字軍アルバ団は朴槿恵の当選のために熱心に努力したので、十字軍遠征は真に長い間継続されている。

ハンミ村 慰霊碑にはなぜ碑文がないか

 ベトナム派兵は私たちが普通考えることよりはるかに深刻に韓国社会を変化させた。 もしかしたらベトナム派兵は南より北側にさらに極端な変化を強要したのかもしれない。 1967年朝鮮労働党中央委員会4期15次全員会議以後、北側の唯一体制は帰らざる橋を渡ってしまった。 1968年1・21大統領府襲撃事件や蔚珍(ウルチン)、三陟(サムチョク)に大規模武装工作員を派遣した無謀な攻勢は金日成版ベトナム派兵だったと言うことができる。 キューバを離れる前、チェ・ゲバラは「二つ、三つ、より多くのベトナムを作ろう」という有名な演説をした。 チェ・ゲバラはボリビアをベトナムにするために自身の命を捧げ、金日成は韓半島をベトナムの第2戦線にするために北側社会が少なくとも柔軟性を堅持する可能性を放棄した。

 ベトナム派兵は韓国の外交関係にも深刻な影響を及ぼした。 韓国は米軍の代わりに5000人の若者を遠い異国の地で犠牲にさせたが、韓-米関係はベトナム派兵をたどりながら最悪の状況に陥った。 全世界が反戦平和の波で覆いつくされた1968年を、韓国は全く違う方式で過した。 第3世界で、いや第3世界だけでなく米国議会ですらベトナム戦争に派兵された韓国軍が‘傭兵’と言われなければならなかった状況で、いわゆる非同盟国家との関係もまた破綻を免れなかった。 1975年8月の非同盟外相会議で、南北が一緒に非同盟会員国に加入を申請したが、北の申請は受け入れられたが南の申請は拒否されたことは韓国外交史上最悪の惨事であった。

 ベトナム派兵は韓国の政治史に長期的な影響を及ぼした。 上では全斗煥(チョン・ドファン)、盧泰愚(ノ・テウ)、チョン・ホヨン、ファン・ヨンシ、ユ・ハクソン、チャン・セドン、アン・ヒョンテなど新軍部の主要人物が、下では光州(クァンジュ)に投入された空輸部隊の将校や下士官の相当数がベトナムに派兵された者だった。 また、物資が豊富だったベトナムで富と経歴を積んだ一部の将校らは互いに押し合いへし合いしながら一心会のようなインフォーマル組織に固く団結した。

 ベトナム戦争が続いたならば国民俳優アン・ソンギは存在しなかったかも知れない。 苦労が多かった子役俳優生活を清算したアン・ソンギは、熱心に勉強してその当時うまく行くと言われていた外国語大のベトナム語学科を首席で卒業した。 彼が軍服務を終えた時、ベトナム戦争は終わっていたし行くあてのない境遇になった彼はやむを得ず映画に戻ったという。 全斗煥は自身が白馬部隊の連隊長としてベトナムに行ってきたが、執権後に軍出身者の団体を在郷軍人会に統合し、ベトナム参戦戦友会など38団体を解体した。 一時‘ベトナムから帰ってきた真っ黒いキム上士’のとても楽しい音調のように羨望の対象だったベトナム参戦軍人は国家からも社会からも急速に忘れられた。 韓国軍の撤収当時、ある新聞は「わが国の歴史上初の海外派兵を記録した駐ベトナム国軍の勝戦ニュースは戦禍に苦しめられたベトナム人にとって永遠に忘れられない十字軍の神話として残るだろう」としたが、5000人の戦死者を残した韓国軍のベトナム派兵は永くベトナムでも‘忘れられた戦争’になってしまった。 大多数のベトナムの人々は、ベトナムが米国と戦って勝ったので、その‘傭兵’だった韓国軍の存在は無視するなり全く知らずにいる。 ただ韓国軍の民間人虐殺が起きた中部地方では事情が違う。 そちらの人々にとってほとんど50年前に起きた民間人虐殺は依然として生きている苦痛と悲しみを与えている。 去る3月5日、青龍部隊によって135人が虐殺されたハンミ村の45周年慰霊祭に参加した筆者は虐殺の傷を癒すには50年の歳月も限りなく短い期間だということだけを痛感した。 ハンミ村には韓国のベトナム参戦戦友福祉会という団体が金を出して作った碑文のない慰霊碑が立っている。 碑文がないわけではない。 村の人々が書いた碑文を韓国政府と参戦軍側が問題にして各種の圧力を加えて修正を要求したのだ。 住民たちは強力に反発したが、結局ベトナム政府の圧力に勝てなかった。 しかし住民たちは碑文自体は修正できないとし、碑文を大きなレンゲ紋の石で覆ってしまった。 真実は再び埋められたが、決して消すことはできない真実は村の人々の胸の中に刻まれている。

"どうしてその娘を大統領に選んだのでしょう?"

 一部はベトナムで金も儲け出世もしたが、はるかに多くの参戦軍人たちは戦争の傷で苦痛を受けている。 ミュージカル<ブルーサイゴン>にはキム兵長が越南(ベトナム)で撃った弾丸は彼の一生を貫いたというあきれた台詞が出てくる。 ただ枯れ葉剤が残した肉体的苦痛だけではない。 残酷だった戦争の閃光のような記憶は時をわきまえず襲ってきて年老いた精神を蝕んでいる。 1999年9月から1年以上、ほとんど毎週<ハンギョレ21>に載せられたベトナムでの民間人虐殺とそれに対する謝罪運動である‘ごめんなさいベトナム’に関する記事は、参戦軍人らを当惑させた。 傭兵と虐殺という非難に対抗して彼らは自分たちのベトナム参戦を正当化する記念物を作り始めた。 国家と地方自治体の予算支援を受けて全国各地に100を越える参戦記念碑が最近5~6年間にできた。 犠牲になった兵士たちを賛える追悼碑や慰霊碑ではなく、ベトナム参戦自体を‘平和の十字軍’であり国威宣揚であり祖国繁栄の礎石を築いたと称賛する巨大な記念物をあちこちに建てられたのだ。 その決定版は猛虎部隊と白馬部隊が訓練を受けた江原道(カンウォンド)華川郡(ファチョングン)看東面(カンドンミョン)梧陰里(オウムリ)に建設されたベトナム参戦勇士出会いの場だ。 ここで最も問題になった場所は、ベトナム解放戦士らが使ったクチトンネルを観光資源として再現したところだ。 トンネルの終端には韓国軍がベトコンと見える二人のベトナムの人々をひざまずかせ、銃を向けている実物大の人形が立っている。 この人形はその後、誰かが壊してしまって今は跡だけが残っているが本当に恥ずかしい物に違いない。 立場を変えて日本がかつて朝鮮に出兵した兵士たちの訓練地に、日清戦争や露日戦争記念館を作り、今日の日本の繁栄をもたらした礎石になった事件だと称賛しながらパジチョゴリ(伝統韓服)を着た朝鮮人に銃や刃物を向けている日本軍人像を建てたとすれば私たちの心境は如何ばかりか?

 ベトナム派兵当時、韓国は本当に貧しい国であった。 その頃、経済企画院長官を務めたユ・チャンスン(後に全経連会長と国務総理を歴任)は<思想界>座談で、派兵をすれば橋も作れ、港湾も建設でき、いろいろできたという話をとてもきまり悪がりながら話した。 他国の戦争に若者たちを送り、金を儲けることは未来の全経連会長にとっても、やはりすべきことではなかったのだ。 それから40年の歳月が流れて大韓民国がとても金持ちの国になり、再びイラク派兵を論じる時、国益という話は進歩を自任する人にすら途方もない力を発揮した。

 ベトナム戦争が終わった直後に民間人虐殺があった村には韓国軍の罪悪を千代にわたり語り継ぎ記録するという天に聳える‘憎しみの碑’が立った。 歳月が流れてベトナムの人々は憎しみの碑の代わりに慰霊碑をたてた。 ベトナムと韓国は1992年修交し、今数多くのベトナム人新妻が韓国にきて暮らしているが、韓国とベトナムの距離は参戦軍人が韓国に建てた記念碑と民間人虐殺の生存者と遺族が惨事の現場にたてた慰霊碑ほどに遠いのかも知れない。 一才の時に韓国軍の民間人虐殺で両親を失い、二つの目も失ったある被害者の人生をドキュメンタリーで撮ったベトナムのある記者は私に尋ねた。 どうして韓国の人々は朴正熙の娘を大統領に選んだのかと、それと共にベトナムと韓国が友人になることができるかと! 日本もA級戦犯の岸の孫を首相に選んだではないかという話はとてもできなかった。 ごめんなさいベトナム。 本当にごめんなさいベトナム。

ハン・ホング(韓洪九)はおもしろい現代史コラムの世界を開いてくれたヒゲオヤジ歴史学者。聖公会大教養学部教授、平和博物館常任理事として仕事をする。 2004年から3年間、国家情報院過去史委員会で活動し、<ハンギョレ> <ハンギョレ21>に‘歴史の話’と‘司法府-悔恨と汚辱の歴史’を連載した。著書に<大韓民国史> 1~4巻と<特講>、<今この瞬間の歴史>がある。

韓国語原文入力:2013/03/15 10:20
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/578281.html 訳J.S(6431字)

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