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[寄稿]トランスジェンダー軍人ピョン・ヒスさんの死を前にして

登録:2021-03-19 03:23 修正:2021-03-19 08:55
//ハンギョレ新聞社

 ピョン・ヒスさんは結局この世を去った。性的マイノリティーに対する韓国社会の偏見と嫌悪、差別と排除を栄養分とする統治秩序とそのような環境に、一つの存在として立ち向かうのは、あまりに孤独でつらいことだったのだろうか。堂々とトランスジェンダーであることを明かし、性別適合手術後も以前と同じように機甲部隊員としての職務を忠実に遂行すると言って敬礼したピョンさんの姿が、その涙と叫びが入り混じったあの時の表情が、脳裏から離れない。

 同時代を生きる社会の一員としてピョンさんの死を防げなかったことからくる悔恨と口惜しさは、怒りの感情となって陸軍首脳部と国防部へと向かう。ピョンさんの選択を認め、支持した部隊長や同僚軍人たちとは違い、首脳部はピョンさんに「心身障害3級」との判定を下し、退役を強制した。心身障害…! たとえ彼らが直接ピョンさんを死に至らしめたとは言えなくても、死なないようにする権能を持っていたことは明らかな事実だ。軍の統帥権者である文在寅(ムン・ジェイン)大統領は4年前の候補時代の「同性愛に反対する」との見解に変化がないのか、でなければ性的マイノリティーの問題は社会的合意が必要だという暗黙的表示で代替しようとしているのか、大統領府からは遺憾表明も出ていない。過去にこの欄で性的マイノリティー解放という課題についてコラムを書いた私は、現実の政治家に再び問わざるを得ない。この地において性的マイノリティーに対する「暮らし(活人)の政治」は「社会的合意」という卑怯さの裏に隠し続けておくつもりなのかと。ではなぜ政治をやっているのかと。「暮らしの政治」以外に、政治にどんな使命があるというのかと。

 たとえば、フランスの思想家ジャック・ランシエールにとって真の政治とは「排除された者たちの主体化の過程」だ(『政治的なもののほとりで』)。政治的主体とは特定の客観的属性によって規定されるのではなく、既存の統治秩序に立ち向かって政治闘争を繰り広げる時に形成されるものだ、と彼は強調する。彼の言葉に従えば、ピョン・ヒスさんこそ真の政治の主体として行動し、発言した。「多分、私一人の闘いだけでは駄目かも知れません。次にまた誰かが出てこそ人権が伸長し、そうなって初めて、私たちのような人間が差別を受けずに社会に溶け込んで生きていける世の中になるんだろうと思います」。しかしピョンさんの闘い、「機甲の突破力で差別のない世の中を作る」と言っていたピョンさんの意志は、旧態から抜け出せない統治秩序の強固な壁の前で挫折してしまった。ピョンさんを通じて、またはピョンさんとともに、変化を期待していた数多くの人々の熱望も冷めねばならなかった。

 ピョンさんの死後に、悲しみや追悼の意を表明した現実の政治家がいなかったわけではない。しかし口先だけで、行動に移す政治家はほとんどいない。哀悼の表明だけでピョンさんの魂を慰められるものではないということを、彼らが知らないはずはない。昨年6月に正義党のチャン・ヘヨン議員が発議した差別禁止法案には、特別なことが盛り込まれているわけではない。年齢、性別、障害をはじめ、性的指向、性別アイデンティティーの違いで差別されるべきではないという、民主共和国なら当然で常識的な要求が込められているに過ぎない。しかし、積極的に取り組む国会議員が少ないため、法案は10カ月間も国会で眠っている。伝家の宝刀のように社会的合意を掲げる政治家には、ピョンさんより先に世を去った性的マイノリティー活動家、キム・ギホンさんの言葉を投げかけることで十分だろう。「私たちはただ存在する人間であり、ただ生きているだけなのに、なぜ存在について合意せねばならないのですか?」

 性的マイノリティーたちの相次ぐ死という悲しい知らせが伝わっているさ中、ソウル市長選挙のアン・チョルス候補は「クィア・フェスティバルを見ない」権利を主張した。見ない権利は「見せるな」という要求だ。存在を現わさないでほしいということだ。もし彼が市長に選出されれば、一年に一度開かれるクィア・パレードすら見えないように、街はずれへと追放するつもりなのか。薄っぺらな票計算で排除の政治を貫こうとすることが、彼が普段から主張してきた新しい政治の内容なのか。

 昨年に他界した米国の進歩的最高裁判事ルース・ベイダー・ギンズバーグは「判事はその日の天気ではなく、『時代の気候』を考慮せねばならない」という言葉を引用した。しかし、その日の天気ではなく、時代の気候を読んで考慮しなければならないのは、判事よりもむしろ政治家だ。いや、時代の気候をあらかじめ読む必要もない。

 今は目を横に向け、周辺の天気を参考にすることで事足りる。国会議員たちに訴えたい。少し前へ進もう! この欄で書いた内容を繰り返さなくてもいいように。21世紀はじめの2001年にはオランダで同性婚の権利が初めて法制化され、欧州諸国が続々とその後に続き、「19世紀が奴隷解放の世紀、20世紀が普通選挙権(女性参政権)の世紀だったとすれば、21世紀は性的マイノリティーが解放されたことで開始された」。相対的に保守的なドイツも、また米国も合法化し、韓国と文化的にも地理的にも近い台湾も合法化した。21世紀となって21年が過ぎたのに、韓国にはまだ同棲権(生活同伴者法)もない。しかし、時代の気候という言葉に込められている意味は明瞭だ。いくら薄っぺらな地であっても、今日では奴隷解放や女性参政権が極めて当然のことになっているように、性的マイノリティーの解放も当然のことになる日はそれほど遠くないということだ。

 パリやアムステルダムなどの幼稚学校には「ママが二人」の友達を持つ子どもたちが登場し始めた。昨日学校に友達を迎えに来た「お母さん」と、今日迎えに来た「お母さん」が違うのだ。かの地のレズビアンカップルは、養子縁組をして子どもを育てる権利だけでなく、精子バンクを通じて自身の生物学的な子どもを持つ権利も持っている。代理母に関する規制を受けるゲイカップルに比べればずっと簡単だ。彼らをめぐって繰り広げられる最も尖鋭的な討論テーマの一つは、その子どもたちが成長して生物学的「父」(または「母」)が誰なのか尋ねてきたとき、どのように答えるのかについてのものだ。子どもたちは「正常な家族」という概念は理解しないだろうし、理解する必要性も感じないだろう。

 「全ての国民は人間としての尊厳と価値を持ち、幸福を追求する権利を持つ」

 大韓民国憲法第10条だ。憲法の精神も我々に問うている。性的マイノリティーたちは人間としての尊厳と価値を持つ国民ではないのか? 欧州の性的マイノリティーが享受している幸福追求権に照らして、今この地の性的マイノリティーは幸福を追求する権利を享受できないのか?

 まず差別禁止法の制定に向けて力を合わせること、これこそピョン・ヒスさんをはじめとする死を選んだ性的マイノリティーの冥福を祈りつつ、我々がなすべきことだ。性的マイノリティー解放の日は必ず訪れるという時代の気候を確認しながら! 我々の課題は、その日が1日も早くやって来るようにすることだ。

//ハンギョレ新聞社

ホン・セファ|ジャン・バルジャン銀行頭取、「素朴な自由人」代表 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/987321.html韓国語原文入力:2021-03-18 16:03
訳D.K

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