権力を握った人々が不道徳なのではない。人間である以上、権力を使う人自体が完ぺきではないということが重要だ。完ぺきでないがゆえに生じる問題を、権力自らが断罪することが可能だろうか。到底望めない話だ。自分たちは“善良な権力”だから、もっと大きな仕事をするために「自分の保護」が必要であり、したがって権力をある程度まで誤・乱用することは避けられない、と考えるものだ。
「葛藤がより深まるほど、この葛藤の根元に関する明確で整理された見解を得るためには抽象の水準を高める他にない」。米国の哲学者、ジョン・ロールズの言葉だ。争う人々が、常に争いの理由を明確に知っているわけではない。表面に現れた理由はよく分かるだろうが、皮相的水準でいくら攻防を行ってみても答は出てこない。本当の問題はその理由の“根元”にあるためだ。
文在寅(ムン・ジェイン)政権に対する評価をめぐる争いもそうではないだろうか。私はこの争いの根元が、相当部分は権力をどのように見るかという権力観にあると考える。抽象の水準を一段階高めて、まず権力観に関する議論をすることが、争いの“生産性”を高めるのに役立つのではないだろうか。それなら、いわゆる“善良な権力”をどのように見るかという問題に集中する必要がある。
人間が社会生活をする以上、権力の支配や統治がない世の中は存在しがたい。もちろん、そうした世の中を夢見る主張や理論は多く出てきたが、まだ夢に留まっている。私たちが現実的に望むのは“善良な権力”だが、権力主体が自ら“善良な権力”であることを掲げるのはきわめて危険だ。いわゆる「自分がやればロマンス、他人がやれば不倫」(人の行為は避難し自分のことは合理化すること)と「他人のせい」の通例化を生みかねないからだ。
民主主義は“悪い権力”を前提として生まれたシステムだ。権力に対して絶えず疑うことを要求する。三権分立を通した相互牽制と監視こそが、そうした“疑いのシステム”と言える。もちろん、そうした手続きによって能率と効率は大きく落ちるが、そうした費用を負担することが、権力の誤・乱用が大規模に行われることよりははるかに良いというのが民主主義体制に暮らす人々の暗黙の合意だ。
権力を握った人々が不道徳なのではない。人間である以上、権力を使う人自体が完ぺきではないということが重要だ。完ぺきでないがゆえに生じる問題を、権力自らが断罪することが可能だろうか。到底望めない話だ。権力の一次的な目標は「自分の保護」だ。自分たちは“善良な権力”だから、もっと大きな仕事をするために「自分の保護」が必要であり、したがって権力をある程度まで誤・乱用することは避けられない、と考えるものだ。
まさにそういう考えのために堕落し没落した“善良な権力”が人類の歴史には無数にある。「権力を握ると人の脳が変わる」という話は真実に近い。「権力は腐敗し、絶対権力は絶対的に腐敗する」という言葉は、わけもなく出てきたのではない。ところが、こうした腐敗の過程は、権力者自らが識別できないほど目に見えないように隠密に行われる。
フランスの哲学者、アンリ・ルフェーヴルは「日常こそ、そのすべての革命が失敗する原因だ」と指摘した。改革も同じだ。改革のためには「積弊清算」をしなければならない。良いことだ。ところが致命的な難関が一つある。構造問題でもありうる積弊を、擬人化・個人化して人を中心に清算すると、日常の領域では事実上「味方の働き口を作ること」という「既得権争奪戦」に転落せざるを得ないという点だ。
改革を推進したり支持する人々は、彼らが改革しなければならない対象だと考える人々より善であり正義の世界観を持っているかもしれないが、子どもの教育から不動産問題に至るまで日常ではまったく同じ人々だ。まさにこうした理由のために、彼らは善と正義に命をかけるような誇張されたレトリックを駆使するが、そうすればするほど、日常で彼らが見せる行動とのギャップが大きくなるだけだ。
「既得権争奪戦」の疑惑を回避できる人事をすればその難関を越えることもできるだろうが、そのような方法はない。改革勢力は善と正義の名のもとに人物の過去とコードを問い詰め、あらゆる事を自分たちだけで独占してこそ気が済む。彼らの卑しいな日常が出てくるたびに、彼らは自分たちに有利なように好戦的な「議題再設定」の総力戦を行うが、一時的成功はおさめても究極的には“善良な権力”の偽善への幻滅を煽ることになる。
確実に“善良な権力”になろうと思うなら、何よりも謙虚でなければならない。それでこそ疎通が可能になる。マキャベリは「謙遜は無益なだけでなく、有害なだけだ」と言ったが、それは500年前の世の中の話だ。今日の民主主義は謙虚さで栄える。オーストラリアの政治学者、ジョン・キーンが『デモクラシーの生と死』で力説した次の主張を胸深く刻まなければならない。
「デモクラシーは謙虚さで栄える。謙虚さは、慎ましく素直な性格あるいは屈従と絶対に混同してはならない、デモクラシーの最も基本的な徳であり、傲慢な自尊心の解毒剤だ。これは自分自身と他人の限界を知って認める能力だ」