4月9日、日本の“天皇”と皇后は戦歿者慰霊のためにアジア太平洋の小さな島国、パラオを訪問した。 天皇夫妻が訪問したペルレルリウ島は日本軍約1万人、米軍約1700人が犠牲になったアジア太平洋戦争の激戦地であった。 まっとうな記事を書くと言われる東京新聞までもが、天皇夫妻が戦後70周年を迎えて、国籍を問わず犠牲者の魂を慰め世界平和を祈る「慰霊の旅」を自らの強い希望で実行したとして、平和主義“天皇”のイメージを記事化した。
天皇夫妻は戦後50年に当たる1995年には長崎と広島を、戦後60年に当たる2005年にはサイパンを訪問した。 2011年の東日本大地震と安倍内閣の登場以後は“民衆の中に”入って行って 「平和憲法9条」を守ろうとする積極的な政治的歩みまでも厭わない。 2013年12月に特定秘密保護法が国会で可決され、次は集団的自衛権承認が予想されていた時点で天皇は「占領下にあった日本は、平和とデモクラシーを守る重要なものとして日本国憲法を作った」として、平和憲法守護に対する自らの意思を直接的に表明した。
日本国憲法第1条は天皇を日本国と国民統合の象徴と規定している。 これは戦前の神的な絶対権力としての天皇制がもたらした弊害を反省して、天皇の政治介入の権限を去勢し、神から人間へと軟着陸させたいわゆる象徴天皇制を意味している。 一切の武力を拒否して絶対平和主義を追求せんとする憲法9条とともに、戦後日本の平和国家の両大軸であった。
安倍内閣の一方主義と平和破壊主義に疲労を感じている知識人と市民活動家までもが、天皇夫妻の一連の平和主義の歩みに支持を送るという動きさえ起きている。 代表的な小説家であり同時に文学賞を席巻した池澤夏樹は、ハンセン病患者及び水俣被害者、3 ・11災害地域を訪問した美智子皇后に対して 「私たちは歴史に例のない新しい天皇の姿を見ているのではないか」 「このように自覚的で明快な思想の表現者である天皇を、この国の国民が持ったことはなかった」(2014年 8月5日)として、平和主義者天皇に対する感情移入を赤裸裸に表出している。
日本憲法の制度的限界内で平和のメッセージを伝達しようとする天皇夫妻の苦悩と努力は充分理解することができる。 しかし、象徴天皇制の誕生背景と制度的役割が果して戦後日本の真の平和を追求できるシステムなのかについては、明確な区別が必要だ。
2000万人が犠牲になった戦争において、昭和天皇の戦争責任はだれが見ても明白に見えた。 しかし天皇制を利用して戦後統治を実施しようとするアメリカ占領軍と、あらゆる犠牲を甘受してでも日本の“国体”だけは維持しようとする日本の保守勢力との合作によって、戦犯としての天皇は起訴を兔れた。 昭和天皇自身も生存のためにこれらの勢力と政治的妥協を選択したのかも知れない。 しかし戦後日本社会の侵略戦争と植民地支配に対する無反省と無責任主義の根源は、まさにこの象徴天皇制の誕生とコインの両面であったと言える。
象徴天皇制を批判する新左翼評論家の太田昌国は「自然災害と人的災害の被害者を区分せずに全てを慰霊する祈祷の政治的行為は、無責任制度である象徴天皇制を受け継いだその地位においては意味がない」と批判する。 むしろ天皇夫妻の平和への歩みは安倍内閣の軍国主義への歩みに対する補完効果として、極右保守政治延長のためのまた別の一軸を担当する役割を担っているとも批判する。
1989年の昭和天皇逝去以後即位した明仁天皇は、記者会見で昭和天皇の戦争責任に関する質問を受けた。 しかし彼は 「返答できる立場にない」として回答を回避した。おそらく明仁天皇は、逝去するその日まで父親の戦争犯罪について言及することは難しいかも知れない。 しかし象徴天皇制が真に日本の平和構築のためのシステムになるためには、慰霊の旅も重要だが、誰も起訴することができなかった父親、昭和天皇の戦争犯罪に対して、天皇自らが先ず国民に対して認める「結者解之」(結んだ者が解くべきだ、即ち、自ら犯したことは自ら解決すべきの意)を成し遂げる時にのみ可能であろう。 地方に疎開した各自の経験によって誰よりも戦争の残酷さを知っている天皇夫妻である故に、戦後70年を日本と東アジアの和解の真の“慰霊の年”にしてくれるよう期待する。