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「大統領が私たちに罪は無いと言ってくれて胸が詰まった」「70年の恨が溶け落ちた」

登録:2018-04-06 08:06 修正:2018-04-06 13:17


痛恨の歳月送った遺族ら
文大統領の追悼の辞に涙ぐむ

『順伊(スニ)おばさん』の小説家玄基栄と
歌手イ・ヒョリが追悼文・詩を朗読

禁忌とされてきた「眠ることのない南道」
4・3合唱曲として響き渡る

大統領の「完全な解決」言及に
地域の関連団体一斉に歓迎

3日、第70周年済州4・3追悼式に参加して行方不明者の標石にある象徴物を見て回る文在寅大統領//ハンギョレ新聞社

 70年の歳月が流れて10歳だった少女は80歳になったが、父と母、兄への恋しさは変わっていない。3日、済州市内の桜はもう散り始めたが、済州市奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和公園に向かう道端の桜は絶頂を成していた。済州4・3平和公園内の「行方不明犠牲者標石」には、あちこちでむせび泣きと慟哭の声が続いた。平和公園の留鳥になったようなカラスが標石の周りを飛んで回る。行方不明犠牲者の標石には済州で行方不明になった2015位の標石を始め、他地方の刑務所で収監生活をしていて行方不明になった人々を含め全3896位の標石が立てられて巨大な共同墓地を彷彿とさせた。

 済州4・3追悼式がこのように晴れた日に開かれたのは珍しいことだったが、生き延びた遺族の苦痛は至る所ににじんでいた。

 「可哀想な兄さん。上の兄さんたちも皆死んでしまって…。私が来なければ誰も振り返りもしないね」 

 ヒョン・ヤンジャさん(82・済州市老衡洞)は大田(テジョン)刑務所で行方不明になった兄ヒョン・サンフンさん(当時20)の標石の前に座り込んで慟哭した。代表的な被害村である当時の老衡里(ノヒョンリ)タラングッ出身のヒョンさんは、一番上の姉の6人家族と二番目の姉の5人家族も4・3の時犠牲になった。「息が詰まりそうに苦しくて泣いた」というヒョンさんは「今回来たから…次にはもう来られそうにない。体の具合も悪くて歩くのが大変で、今年が最後になりそうだ」と言った。

 キム・オクチャさん(77・済州市涯月邑魚道里)の慟哭も長かった。祖父と祖母、祖父の弟、そして父の兄弟5人が4・3の時に犠牲になった。8つの杯で酒を供えていたキムさんは「中山間地域のある洞窟に父とともに隠れていたが、捕まって当時収容所だった済州酒精工場で1カ月ほど暮らし、父は西大門刑務所に送られたのが最後だった。秋夕(チュソク)や旧正月(ソル)にも4・3平和公園に来る」と語った。キムさんは「4月になると決まってとても辛い。忌々しい大韓民国だった」と言い、「しかし文在寅大統領が来てこのように遺族を慰めてくれたので、この上なくありがたい」と言った。

父親の遺影を手に行方不明者の標石を訪ねて嗚咽するキム・ヨンジャさん(73・済州市朝天邑北村里) //ハンギョレ新聞社

 仁川(インチョン)刑務所に送られたあと行方不明になった兄の標石の前に座っていたカン・ミオクさん(77・済州市奉蓋洞)とカン・スノクさん(82)の姉妹は「来なければとてもさびしい」「来てみれば、来なくてはいけないのだと思う」と言った。チョン・フンギさん(76・西帰浦市表善面カシ里)とキム・ヨンジャさん(78)夫婦も毎年4月3日には4・3平和公園を訪れる。チョンさんは「私の前で祖母、母、弟が銃に撃たれて死ぬのを見た。祖父は左腕に銃創を負ったが私と弟を抱いて竹やぶに隠れて生き延びた。しかし祖父は治療を受けられなくて翌年亡くなった」と回顧した。

 チョンさんは「今回大統領が来たからとても嬉しくありがたい気持ちだ。李明博(イ・ミョンバク)、朴槿惠(パク・クネ)政権時には4・3を放り出してしまおうとするのでとても悔しかったが、このように訪問して、4・3を完全解決すると言われるので、遺族として大きな喜びだ」と話す。

 文在寅大統領夫妻がこの日の午前「行方不明犠牲者の標石」に立ち入るとしばしざわつきもしたが、2006年の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の訪問以来12年ぶりに成された大統領の訪問を遺族たちは大いに歓迎した。

 祖父母と伯父が討伐隊に銃殺され、父とともに山に隠れていたコ・チョオクさん(86・西帰浦市南原邑依帰里)は「警察が踏み込んできたとき他の方向に逃げた父はつかまって、大田刑務所に収監されたあと行方不明になってしまった」と言った。二人の兄を4・3の時に失ったカン・ケファさん(84)は「4・3で家の跡継ぎがいなくなってしまった」と言い、「これまで大統領が何回か来ると言いながら結局来なかった。大統領が無念に亡くなった方たちに会いに来るのは当然なことではないか。文在寅大統領が来られたのを見てとてもうれしかった」と言った。4・3の時父を失い9人兄弟のうち唯一人生き残ったキム・イングンさん(80)も「大統領が私たちに罪はないと言って下さった。何の罪もないのに死んで行った親兄弟を思うと涙が出る」と言った。

チン・ヨンジャさん(81)とチン・チュンジャさん(84)が4・3の時に犠牲になった父の位牌を訪ねてお参りしたあと、行方不明になった兄の標石を訪ね、果物などを供えて嗚咽している//ハンギョレ新聞社

 4・3当時父が犠牲になり、兄は刑務所に送られた後に行方不明になったチン・チュンジャさん(84)とチン・ヨンジャさん(81)の姉妹は兄の標石の前でずいぶん長い間むせび泣いていたが、平和公園を訪れた文大統領の姿を警護員らの合い間から見て「あの方が大統領?大統領が来たから本当に嬉しい」と笑った。プ・ヨンジャさん(88)も「大統領の謝罪はどんなに大きな事か。私たちももう長くない。賠償・補償問題にも関心を持ってほしい」と言った。また別の遺族は「大統領の追悼の辞は、切り捨てていいような部分は1文もない名演説だった。特に、理念が引いた生と死の境界線は虐殺現場にのみあったのではないという言葉を聞いた時は、思わずぐっと込み上げた」と感激していた。

 この日文大統領は行方不明者の遺族であるヤン・サンウさん(65・済州市華北洞)の家族を慰めて、ヤンさんの父親(ヤン・ドゥボンさん)の標石に椿の花を献花した。文大統領が追悼の辞を朗読する間、目頭を押さえる遺族たちの姿も見られた。

 この日4・3の遺族で構成された4・3平和合唱団は、これまで事実上4・3追悼式での禁止曲だった4・3の歌「眠らない南道」を歌った。2014年の追悼式には4・3と何ら関連のない声楽曲「美しい国」を合唱曲に採択して非難を受けている。

 追悼式が終わって退場する姿も例年とは異なる姿だった。午前11時25分、追悼式が終わった後、文大統領が式場の中央通路を通って退場していく間、歓呼の声と握手しようとする遺族や道民など参加者が押し寄せたが警護は柔軟だった。文大統領は自ら遺族に近付いて手を取った。

4・3の時に兄弟姉妹を失ったヒョン・ヤンジャさん(82・済州市老衡洞)が兄の標石の前に座って慟哭している//ハンギョレ新聞社

 この日文大統領が済州4・3の完全な解決に言及したことについて、済州地域の4・3関連団体は一様に積極的な歓迎の意を表した。済州4・3研究所のイ・ギュベ理事長は「現時点で国家指導者として残すことのできる最高の発言と評価する。この国の大統領が作り出した問題に対し、この国の大統領が心情的にそのハン(恨)を溶かしてくれる名演説だった」と評価した。イ理事長は「4・3に対する穏当な評価を念頭に置いており、4・3に対して正しい認識と評価をしているという点が非常に良かった」と言った。

済州4・3平和財団のヤン・ジョフン理事長は「4・3の遺族や済州道民が望む懸案について具体的に約束をしてくれて肯定的に評価する。今日の約束が文在寅政権期間に必ず実現することを期待する」と言った。

 済州4・3犠牲者遺族会のヤン・ユンギョン会長は「これまで遺族の胸に積もっていた70年間のハン(恨)が大きく溶け落ちるようなきっかけになった。私たちが聞きたかった話を大統領が真心を込めて語ってくれたことが、非常に心に響いた。追悼の辞を通して謝罪、慰労、感謝の言葉を遺族と道民に伝え、済州に春が来ようとしていると言われたところにすべての内容が入っている。大統領の真心と誠を尽くした追悼の辞だった」と評価した。

ホ・ホジュン記者(お問い合わせjapan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/838922.html韓国語原文入力:2018-04-0316:33
訳A.K

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