Cogito ergo sum、 我思う、ゆえに我ありといわれますが、別な観点からいえば、人間は存在するからには常に何かを恐れます。前近代人の場合なら、その生死に絶対的な影響を及ぼした自然の力を恐れ、恐れただけにその力を神格化しました。私たちがよく知っているキリスト教やイスラム教の唯一神とは、実はその起源においてユダヤ教の唯一神の延長上で想像されたものであり、ユダヤ教の唯一神は、元々古代ユダヤ人たちの雷と稲妻の神さまであったエホバでした。最も恐ろしく、そして「雨」という最も重要な自然現象と最も密接に結ばれている神は、結局ほかの神たちを押しのけて「最高」の座に付きました。原始人や古代人にとって自然の恐るべき力は神格化されやすかったのですが、近現代人にとって神格化されやすいのは国家と資本の力です。国家/「国民」/民族の神格化は一般的にかなり可視化されているものの、資本の力、すなわち「市場」の神格化は必ずしも大きな銅像や派手な祝祭、鳴り響く愛国歌などで表現されなくても、常に私たちの日々の生活の中で感じられるものです。いかなる本よりも処世術の本を多く読み『三国志演義』を通して組職社会における行動原理を把握する現代人、既に幼稚園時代から入試、すなわち窮極的に資本の力に組み込まれることになる「就職」を念頭に置かなければならない現代人のほとんどすべての瞬間は事実上「市場」によって決められます。一生、保育園時代から老後までの目的は就職と持続的失業回避、そして不動産/自動車の購入ならば、このような生き方で物神化された「市場」が振りかざす絶対的な力はエホバ神に付与された以上の意味を持つでしょう。
恐怖の種類はとても多様ですが、大部分の恐怖感の共通分母とは何かといえば、つまり「落伍」に対する恐怖ということです。落伍に対する恐怖はおそらく共同体からの追放がそのまま餓死を意味した古代社会で既に強固なものになったと思われますが、今も社会化された大多数の恐怖はすなわち落伍に対する恐怖をその根底に置いています。たとえば、私も小さい頃よく経験した、喧嘩の強い子供の腕力に対する恐怖を分析してみてください。その拳が与えられる痛みそのものがそんなに怖いでしょうか。スケートやスキーをして転んでも、その痛みを忘れて楽しく遊ぶ子供たちの世界では痛みそのものはそんなに怖くはありません。本当に怖いのは「いじめ」や「仲間外れ」、子供社会で「力の序列」において下っ端の「不可触賤民」(?)になることです。社会的「体面」の喪失は本当に怖いものです。就職の失敗への恐怖もそうです。就職できない人が飢え死することもありうる大韓民国では失業に伴う経済的な窮乏も本当に怖いですが、何より気になるのは同期、先輩や後輩、先ずは家族の中での「メンツ」です。「どこに勤めていますか?」などという質問に「あ、最近は少し休んでいます」と返事する時に感じる屈辱感? 私が小さい頃に喧嘩の強い子に対抗できずに感じたその「メンツ潰し」は、現在の大韓民国では少し異なった形で数百万人が感じているということです。これこそが私たちの最悪の恐怖ではないでしょうか?
このように考えれば、韓国の若者たちの最近の行動は少しは理解できたりしませんか。韓国では教育機関とメディアたちが想定している準拠集団、「主流集団」というのがあります。若者たちでいえば、彼らにとって絶対に落伍することのない「主流」とは、すなわち中間以上の成績で「立派な首都圏の大学」に入り、「内地」(?)で「内地語」(?)を身に付け、場合によっては「内地人」(?)にも逢える幸運がめぐってきても、堂々と植民母国の言葉を自由自在に駆使し、途中で少し苦労しても、結局は学生時代に積んだその華麗なスペックで「立派な企業」に入社したり、公務員になって、40才頃になれば職場、住宅、自動車の三位一体(?)をすべて所有します。もちろん実際は、こんな人は同じ年齢集団の中では少数にすぎないにもかかわらず、メディアや主にそのような人々を主人公にしたドラマなどがこのような「成功した集団」を準拠集団化してしまいました。学校で(私とは違って) 少しは喧嘩の強い男の子が準拠集団に(非公式的に)なっているのとおなじようにですね。では、大韓民国の平凡な若い人々は果して常に何を感じているでのしょうか。そうです。この準拠集団の達成水準に自分たちは及ばないかもしれない、自分たちが落伍するかもしれないと思い、常に恐怖を感じるのです。極めて悽絶な恐怖感。私が喧嘩の強い子の前で感じた以上の恐怖感であることでしょう。社会運動に対する無関心、連帯の不足、弱者に対する思いやりの絶対的な不足などの若者社会のかなりの疾患はすなわちここから派生するものです。恐怖にとらわれた人には何も目に入りません。北朝鮮で「首領様」の肖像画を不覚にも汚してしまった人が一生に一度感じるかどうかの恐怖は、大韓民国で「成功」できなかった、そして一生「成功」する確率が極めて低い人が毎日感じるその恐怖に比べれば、おそらく強度においては低いかもしれません。
恐怖を生きる社会が地獄ならば、大韓民国は間違いなく無間地獄です。問題は、この無間地獄を脱する方法です。私見では、最も良い方法は保守メディアなどの設定した準拠集団の解体です。彼らが「ベンチマーキング」した「成功」した人々は極少数である点はこれから恐慌が深まっていくほど自明になると思いますが、いくら「成功」をおさめ、正社員になり、家と自動車を確保していても、どのみち孤立感と恐怖、空虚感からは逃れられないという点を大衆的に明らかにしなければなりません。正社員の間でも無限競争の法則がそのまま適用され、その社会も恐怖に包まれているということ、絶対に幸せになれないということを、人々が常識として理解できればと思います。私たち皆が今「国民不幸の時代」を生きているということが明らかになったら?そうなれば、私たちは恐怖を感じない、新しい社会的ゲームのルールを一緒に連帯して決めれば良いことでしょう。しかし、そのような連帯が成り立つためには、おそらく何よりも先に我々は一つのことに気付かなければなりません。「私」は恐怖の中に生きているということ、「私たち」は皆恐怖の中に生きているということ。そして恐怖から一緒になって脱しなければならないということ。私たちが味わっている苦しみの正確な実体が大衆的に理解されれば、この苦痛を一緒に、連帯して脱する、これからの八正道が広がることでしょう。