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[梨泰院惨事]2時間なで続けた冷たい顔…母とのおしゃべりが好きだった娘

登録:2022-12-09 02:52 修正:2022-12-19 08:57
[ごめん、忘れないよ]梨泰院犠牲者の物語|パク・カヨン 
ファッションデザイナーになって舞台作ること夢見た19歳 
「今の雰囲気ではうちの子は犠牲者ではなく加害者みたい」
パク・カヨンさん=イラストレーション/クォン・ミンジ//ハンギョレ新聞社

<梨泰院(イテウォン)惨事の犠牲者と遺族の物語をシリーズで掲載します。ハンギョレと「ハンギョレ21」は、私たちが守るべきだった一人ひとりの人生がどれほど大切か、それが消え去った家族の人生はどうなったのか、遺族が知りたい真実とは何なのかを記録する予定です。今までできなかった話を聞かせてくださるご遺族のご連絡をお待ちしております。>

[ごめん、忘れないよ]//ハンギョレ新聞社

 19歳のカヨンさんは「衣服で見せる人間の物語」に関心が高かった。牧園大学繊維・ファッションデザイン学科2年生のパク・カヨンさん。「お母さん、私、ファッションのステージを作ってみたい。そのためには服を知らなきゃだめだと思う」。忘れ去られた独立運動家が21世紀の都市の真ん中に現れたり、発達障害者が自らを自由に表現したりすることが、服とファッションの舞台を通じて可能になるとカヨンさんは信じた。

 美術予備校では「絵には才能がない」と言われた。母親にも美術ではなく公演企画を勧められた。しかし高校生のカヨンさんは服に対する自分の気持ちを信じた。ファッションデザイン科のある美術大学に進学するため、友人たちが3時間受ける授業を6時間、9時間受けた。

 大学進学後もカヨンさんは、ファッションショーをより深く学びたいと思った。カナダ留学を夢見た。長期休みのたびに1日12時間アルバイトをした。そのような長期休みを3度過ごして貯めた資金は1400万ウォン(約145万円)。「いろんなものが見たい。留学もしたいし、旅行もしたい」。カヨンさんは口癖のように家族に言っていた。故郷の忠清南道洪城(ホンソン)から100キロほど離れた大田(テジョン)にある大学に通っていたが、カヨンさんにとっては恐れより期待の方が大きいようだった。

母親にとって忘れられない冬の贈り物、雪だるま

 カヨンさんの冒険心は生まれつきのものだ。小学校1年生の時、長距離電車に乗って洪城から天安(チョナン)まで病院に行ったかと思えば、中学校3年生の時には一人でKTXに乗って釜山(プサン)旅行に行った。むしろ両親の方が不安で、車でカヨンさんの後をつけて行ったが、ばれてしまった。「これからは一人で行くよ」というカヨンさんの宣言に、両親はうなずいた。

 それでも心は家族と常につながっていた。カヨンさんは折に触れて母親に電話して、小声で日常の話をした。友達とどこに行ったのか、自分はどんな行動をしたのか、こまごまとした対話が続いた。「私、お母さんとおしゃべりするのが好き」

 母親は携帯電話の向こうのカヨンさんの声を聞きながら、家事をしたり散歩したりした。仕事がうまくいかない日は「コーラ1杯とチキン」、家に遅く帰ってくる弟をからかう「寸劇」など、母と娘の間には2人だけの「共通の笑いのツボ」があった。

 大雪の降った2021年の冬のある日、カヨンさんと弟は母親に内緒で夜に外出し、人の背丈ほどの雪だるまを作った。母親は翌日、カヨンさんが携帯電話のカメラで撮った雪だるまの写真を見て、「どれ、見てみよう」と言って玄関を出た。朝日で半分近く溶けてしまった雪だるま。カヨンさん、弟、母親の3人はケラケラ笑った。「何よこれ、面白すぎる」。母親には忘れられない「冬の贈り物」だった。

パク・カヨンさんと弟が作った雪だるま=遺族提供//ハンギョレ新聞社

 大田の学校の近くで一人暮らしをしていたカヨンさんは、実家に帰ってくるたびにタコの塩辛、切り干し大根といったおかずを両手いっぱいに持っていった。近所で一人暮らしをする友人や、徹夜作業で寮に帰れなかった友人たちが、カヨンさんの家にやって来て食事したりもした。「(友人のために)いつも冷蔵庫をいっぱいにしておかなければ気が済まない子でした」

 カヨンさんの母親のチェ・ソンミさん(49)は、1カ月が過ぎた今も「あの日」のことをはっきりと覚えている。カヨンさんは「友達が梨泰院の近くに住んでいるんだけど、一緒に展示会を見てくる」と言った。10月30日午前1時30分ごろ、ソンミさんがウトウトしはじめた時だ。携帯電話が鳴った。「梨泰院で大きな事故が起きました」。カヨンさんの友人の切羽詰った声が聞こえた。「私がその友達に『どうして?』『怪我はひどいの?』と聞いたら『死んだ』と言うんです。この子、当惑し過ぎてよく分かってないみたい、私が行かなきゃと思って、お父さんと服もきちんと着替えずに洪城からソウルに行ったんです」

 両親はソウル龍山区(ヨンサング)の順天郷大学病院の斎場に着いた。斎場の向こうには、救急車に乗せられて移動する犠牲者の様子が見えた。病院はまだ身元が把握できていないと言って、両親の斎場への立ち入りを止めた。「うちの子を見つけたら連絡してくれると警察に言われたので待っていましたが、連絡はありませんでした。結局、私たちが自分で子どもを探すことにして、(住民センターのようなところで)子どもが江東聖心病院にいると言われて、すぐに駆けつけました」。ソンミさんは病院前に到着してから12時間後の午後1時30分ごろ、ようやくカヨンさんの行方を知った。

 カヨンさんでないことを願ったが、カヨンさんだった。ソンミさんはすぐに娘を連れて家に帰りたかった。しかし様々な行政手続きが両親を苦しめた。検視が遅れたため、病院で改めて半日近く待たされた。待っている間に区役所の公務員が父親に電話をかけてきて「葬儀費は補助されるので心配しなくていい」と言った。警察は電話で陽気な声で「こんにちは」とあいさつした。事件の調書を書けという案内の電話だった。「お父さんも私もあきれ果てて、いったいこの人たちはこの状況を何だと思っているんだろうと思いました」

お母さんは今もあの救急車の中に

 待たされた末、10月30日午後5時、カヨンさんを連れての洪城への帰路。ソンミさんは救急車の中で2時間ものあいだ、娘の顔を休まず撫でていた。「冷たい顔ばかり触っていました。あの子、反応しないんですよ。あの日以来、時間が止まったように感じます。私は今もあの救急車の中にいるんです」

 11月初め、カヨンさんの所持品を取りにソウル龍山区元暁路(ウォンヒョロ)の多目的体育館に行った両親は、「他の子たちも慰めたい」という気持ちで汝矣島(ヨイド)の国会議事堂前の焼香所のそばに車を止めた。しかし目に飛び込んできたのは、2坪にも満たない狭い焼香所と、犠牲者の位牌も、遺影も、名前もない祭壇だった。「どんなにみすぼらしかったか分かりますか。一般の葬儀も位牌ひとつ、遺影ひとつに至るまで相談するのに、どうして政府はあんな焼香所を設置できるのか。子どもたちの名前を隠したのは、非公開というのは言い訳で、実際は隠蔽ではないですか」

パク・カヨンさんが美術大学の入試に備えて描いた絵=遺族提供//ハンギョレ新聞社

 カヨンさんが世を去ってから1カ月近く人と会うのを拒んでいたソンミさんは、いま再び人前に立っている。国が軽く考えた死の重さを知らしめるためだ。「今の雰囲気では、うちの子たちは犠牲者ではなく、社会を憂うつにさせ、税金をより多く使わせる加害者のように感じます。大統領の心からの謝罪を談話文で受けたいし、きちんとした真相究明を求めたいと思っています」

 カヨンさんの両親は、遺族の協議体の準備会に参加している。深夜に「食べることも眠ることもできない」遺族たちの残したメッセージが、カカオトークのグループチャットルームにたまっていく。午前3~4時であろうと、誰かがメッセージを書き込めば、ほとんどすべての人が読むのに5分とかからない。あっという間に消える未読を示す「数字」には、毎晩眠れないカヨンさんの両親も含まれている。

 近ごろソンミさんはカヨンさんに「ごめんね」という言葉ばかりを繰り返す。「お母さんがあの日、小遣いをあげてしまってごめんね、そこにお母さんがいてあげられなくてごめんね。お母さんが一緒に行ってあげられなくてごめんね」。多くを夢見ていた19歳のカヨンさんは、20歳を迎える誕生日の2022年11月1日、出棺を終えて空へと旅立った。

シン・ダウン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1070697.html韓国語原文入力:2022-12-08 05:00
訳D.K

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