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「職場で持ち主を失ったノート…夢も希望も安全不在に壊された」

登録:2021-05-10 04:12 修正:2021-05-12 11:17
平沢港で死亡したイ・ソンホさんの姉、ウンジョンさんインタビュー 
 
両親のことを心配して就職に悩んでいた青年 
安全無視した職場で空しい死を迎える 
「二度とこのようなことがあってはならない」家族の涙
昨年8月、イ・ソンホさんが旅行先の慶尚南道統営で、上の姉イ・ウンジさん(31)とペンション前のフォトゾーンで写真を撮っているところ=イ・ウンジョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 23歳の大学生には、やりたいことがたくさんあった。稼いだら甥や姪たちにはお菓子を、家族にはチャンポンをごちそうしたかった。高校時代から数学が得意で、大学の専攻も数学だったので、数学教師になろうかと思いつつも、就職難を考えると技術を学んだ方がいいのではないかと悩む平凡な青年だった。友人たちと旅行に行きかった。大好きな姉たちとの時間も過ごしたかった。何よりも平沢(ピョンテク)港や食堂へと働きに出る両親の苦労を軽くしてあげたかった。

 イ・ソンホさん(23)のこのような夢は、先月22日に止まってしまった。京畿道の平沢港でコンテナ検収のアルバイトをしていたイさんはその日、開放型コンテナ本体の隙間に挟まった木片を取り除くためにコンテナの上に乗ったところ、300キロのコンテナの扉が倒れて下敷きとなった。問題のコンテナの扉は、折りたたもうとして動かしたわけでもないのに倒れてくるほど安全性が不十分で、事故現場にはフォークリフトの使用に伴う安全管理責任者や信号手もいなかった。ソンホさんは一度もやったことのない仕事に、安全教育もなしに投入された。ソンホさんに指示を出したという元請会社の社員は、「そのような事実はない」と否定している。

末の弟ソンホさん(左)と次姉のウンジョンさん(右)が、心温まる一時を過ごした様子=イ・ウンジョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 ソンホさんがこれほどむなしい死を迎えていなかったら、彼はどんな人生を生きただろうか。安全のない職場は、青年とその家族の未来をどのように変えてしまったのだろうか。9日、本紙はソンホさんの二番目の姉、イ・ウンジョンさん(29)の声を通じてソンホさんの人生と夢を再構成した。

[知的障害のある姉には頼もしい、他の家族には優しい末っ子]

 家族内でソンホさんを呼ぶあだ名は、一人ひとり違った。母親には「ソンホ王子」、父親には「チュクミ(イイダコ)」、姉には「チャング」と呼ばれていた。ソンホさんには31歳の上の姉と29歳の下の姉がいるが、ウンジョンさんはソンホさんの下の姉だ。上の姉には知的障害があり、ソンホさんは8歳も離れている上の姉を保護者のように気遣う頼もしい弟だった。

 「上の姉を人がからかったりすると、ソンホが黙っていないんです。誰かに言われなくても姉さんの食ベ物を準備したり、道を渡る時は自分が外側に立ったり、そんな姿がけなげで、とてもかわいがっていました。最近、姉は体調が悪かったのですが、ソンホが疲れている家族に『最近は治療が良くなっているから、あまり良くない方向に考えるのはよそう』と言って慰めてくれたんです。でも後で友人たちの話を聞いたら、あの子、友人たちに家族の話をしながら泣いていたそうです」

[上の姉へのやるせない思いが他の家族へのやさしさに]

 「ソンホが末っ子だからか、家族とは友達のように過ごしていました。大きくなってからも母に毎日抱きついて、母がソンホに『お父さんの頬にキスしてあげて』と言ったらキスしてあげたり。すると父はうれしいくせに、『気持ち悪い』と言って笑ってふざけたりしていました。ソンホ、踊ってみてよ、そう言ったら踊ってくれたり」

 ソンホさんは少しでも稼いで両親の経済的負担を軽くしたかった。「大学に行ったのに両親から毎回小遣いをもらっていては申し訳ない」と言って、ソンホさんは昨年1月から父親について行って平沢港でアルバイトをはじめた。ソンホさんはそのお金で友人たちと一緒に暮らしていた家の家賃を払ったり、周りの人たちにおやつをおごったりしていた。

 「ソンホが、子どもたちにおいしいものでも買ってあげてと言って、私の手に5万ウォンを握らせたんです。私が『あなたにそんなにお金があるはずないじゃない』と言ったら、『姉さん、ぼく今回平沢港でたくさん働いたから金持ってるんだ』と言うんです。あの子はお金を稼ぐと周りの人のために使いたがるんです。母が食堂をしているんですが、常連の町のおじさんたちにチキンをおごったりして仲良くしていました。私が『それであなたはいつお金を貯めるの』と聞くと、ソンホは『金はまた稼げばいいんだよ』と言うんです」

試験勉強のノートを持って職場に向かった弟

 ソンホさんは楽しい人だった。歌が好きでギターがうまかった。高校時代は学校でコントラバスも習っていた。ウンジョンさんは「ソンホは学園祭のたびにステージに出て1位、2位になった」と思い出を語った。

 科目の中では数学が特に得意だった。「ソンホは学校に通っていた時、数学の先生も分からなかった問題を黒板で解いて先生を驚かせたりしていました。税理士や会計士などもやりたがっていました」。大学の数学科に進学し、成績で奨学金をもらうほど勉強にも熱心だった。ソンホさんは家庭で「勉強する唯一の子」だった。若者が就職難だと聞いて、ソンホさんが技術を学ぶべきかどうか悩んでいると、父親は「技術職は危険だし大変だから、やってきた勉強を続けてほしい」と話した。平沢港で作業班長として長く働いてきた父親は別の道を勧めたのだ。家族たちは、ソンホさんが数学の先生や会計士、銀行員になるのが合っていると思った。

右上はソンホさんの高校時代のノート。「一生懸命勉強してソウルの大学に行こう」と記してある。左上はソンホさんが事故当日に着て行った上着に入っていた試験用紙と思われる紙。下は仕事の休み時間に勉強するために事故当日持っていたノートと教科書=イ・ウンジョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 ソンホさんは、事故当日も試験勉強をすると言って、事故現場にノートパソコンとノート、鉛筆を持って行っていた。彼が授業時間に書いていたノートには、数学の公式がびっしりと記されていた。これらの所持品は、数日経ってから主人ではなく父親の手に握られて帰宅した。

 「あの日(22日)も昼にソンホからテレビ電話がかかってきました。それで、子どもたちの顔を見せたりして話していたんですが、私は子どもを見なければいけないから『ソンホ、後で電話しよう』と言ったんです。あの子とはいつでも電話できるから、あの時はそう思ったんです」

 夜、母親は「ソンホが好きなほうれん草のナムルを和えて」帰宅を待っていた。ウンジョンさんは母親とあれこれ話して電話を切った。が、しばらくして電話がまた鳴った。「ソンホが死んだ」。泣き叫ぶ母親の声がウンジョンさんは今でも忘れられない。「突拍子もなさすぎて、お母さんはどうして嘘をつくんだろう、と思いました」

 ソンホさんが大切に思っていた上の姉は、事故後2週間が過ぎてもソンホさんの帰宅を待っている。彼女は口癖のように「ソンホはいつ帰って来るの?」と聞く。上の姉はまだ事故のことを知らない。家族は今のところ事実を伝えられず「ソンホは大学の試験を受けに行った」と話している。

早く真相を究明して休ませてあげたい

 ウンジョンさんは、家族はもう葬儀を終えてソンホさんを送りたがっているという。そして、ソンホさんにコンテナの上に乗るよう指示したという元請会社「東方」所属のフォークリフト運転手に対して、事実を認めて謝罪することを望んでいる。「両親は弟のために働いているのに、あの子はいなくなってしまったじゃないですか。何千億くれると言っても必要ありません。会社はどうか認めて、心のこもった謝罪をしてくれたらと思います。母も『お前の弟は寒いのがとっても嫌いなのに、 いつまであそこにいないといけないのかね』と言うんです。私も心の準備はできていませんが、でももう弟を天国に行かせてあげたいんです」。きちんとした真相究明が必要だと信じるからこそ、ソンホさんの葬儀は事故発生後18日が過ぎても終わっていない。

 家族たちは、ソンホさんを失ったつらさを人には経験してほしくないと話した。「ソンホだけではなく、これからは誰にもこうしたことが起こらないでほしい。若すぎますよね。ようやく大学に行って、これからすべきこと、したいことも本当に多かったはず。花が咲くのはこれからなのに惜しすぎます。こんなことは二度と誰にも起こってほしくないんです」

シン・ダウン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/labor/994421.html韓国語原文入力:2021-05-09 16:29
訳D.K

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