1988年のハンギョレの創刊は、市民の力とクーデターや軍部独裁に反対して報道機関から追い出されたジャーナリストをはじめ、各界各層の情熱と知恵が集まって成し遂げられた奇跡のような歴史だった。人ならば世の中を知り、自分の道を切り開ける年といえる創刊35周年を迎えた今日、現在の韓国社会とハンギョレがその歳月の分だけ成熟したのかを振り返る。韓国社会が民主化以後に成し遂げた成果を否定する人はいないだろう。経済的成長からK文化まで物質的・文化的成果も目覚ましいが、独裁と権威主義政権で隠されていた真実を見つけ出し、誤った歴史を正す勇気も私たちは共に分かち合った。成長と構造的問題に埋没し一人ひとりを尊重しなければ、真の社会的進歩は実現できないという共感も形成された。
わずか1年前には想像もできなかったこと
しかし、35年前を彷彿とさせる出来事が起きているのが2023年の大韓民国だ。検察出身者たちが主な権力機関の要職を掌握した「検察共和国」は、「大韓民国は民主共和国だ」という憲法第1条1項を真っ向から否定しているようだ。「施行令統治」と「拒否権政治」が日常化するほど三権分立は危うくなり、政治において対話と妥協は姿を消した。階層と集団の利益が分かれる事案に対し、仲裁と調整よりも国民の「分断」ばかりが浮き彫りになる間、青年たちは伝貰(チョンセ・契約時に高額の保証金を貸主に預けることで月々の家賃は発生しない不動産賃貸方式)詐欺で崖っぷちに追い込まれ、高物価と不平等の影は色濃くなった。米中均衡を見出す「グローバルサウス」が注目を浴びる時代に、「価値観同盟」を掲げた善悪の二分法的な「敵味方」を分ける外交は、韓国を米国が主導する中国けん制の最前線に立たせている。このため、朝鮮半島情勢の不安定と不安は一層高まっている。
特に、長い間論争と熟議を経て成し遂げた合意と価値が後退するのは極めて懸念すべき現象だ。済州(チェジュ)4・3事件と5・18光州(クァンジュ)民主化運動を卑下し歪曲する発言は、与党の中心部で「市民権」を得たようだ。セウォル号惨事を経験したにもかかわらず、「安全社会」を求める梨泰院惨事犠牲者遺族たちの手を一度も握ることなく、大統領は責任者たちを庇うことに腐心している。
これを監視すべきマスコミの現実はどうか。批判的報道に対する政権の圧力は露骨化し、国の運命を左右する大統領の主要発言は海外メディアとのインタビューを通じて聞くようになった。さらに心配なのは、民主主義が危機であるほどマスコミへの信頼度が高まる通常の事例とは異なり、韓国では民主主義とマスコミ信頼の危機が複合的に迫っているという点だ。私たちはそれを「退行の時代」という。
権力の監視と代案の省察の使命を果たす
しかし、民主、民生、民族統一というハンギョレ創刊精神に集約された35年前と、今私たちの目の前に置かれた時代の課題が同じであるわけではない。人口、気候危機、人工知能(AI)のような新しい課題に対する答えを探すことが求められている。何よりも35年の歴史を通じて、白黒や善悪の二分法ではいくら崇高な課題も解決できないという事実が明らかになった。野党と進歩陣営も「ダブルスタンダード」から自由ではないという現実も、変化の動力を弱め、敗北感と疲労感を深めていることは否めない。
このような状況だからこそ、私たちに希望を抱かせるのは常識と恥を知る市民の力だ。その出発点は「省察」でなければならない。ハンギョレも創刊以来、弱者の側に立って平等と共存の共同体価値を守るのに務めてきたが、至らない点が多かったことも自覚している。特に今年起こった「編集局幹部の金銭取引事件」によって、私たちは原点を振り返ることになった。創刊35周年を迎え、ハンギョレが倫理実践の内在化と法曹報道の変化などの案を明らかにすることは、外部の批判に開かれた姿勢で実践を続けていくという約束だ。民主主義の原則が後退することがないよう権力の監視を強化しながらも、より良い暮らしに向けた代案を示し、未来の選択に深みのある考え方を提示するメディア本来の道へ、決然たる覚悟で再び乗り出す。