2002年8月、太平洋戦争犠牲者光州(クァンジュ)遺族会の会長のイ・クムジュさんの家でキム・ヘオクさんに会った。その日うかがった話は「ハンギョレ21」に「私は歩いた、彼らは泣いた」(421号)と題する記事として残っている。「キムさんは胸に刻まれた恨(ハン)を吐き出すように、速射砲のように言葉をあふれさせた」
「13歳の時だった。ある日、校長が生徒たちを集めて『日本に行けば金も稼げるし、女学校にも行ける』って言ったんだ。私は真っ先に手をあげたよ。両親は反対したけど、日本人を相手に商売していたうえに、私が言い張るもんだからどうにもできなかった。両親には泣いて見送られたけど、あの時はその理由が分からなかった」
13歳の少女は、名古屋の三菱重工の工場で飛行機の部品にペンキを塗る作業をして1年あまりを過ごした。いつもお腹を空かせていた。「半島人」と蔑視されるのも悲しかった。期待していた女学校はおろか月給すらもまともにもらえなかった。解放と同時に故郷に戻ったが、後遺症で結核を患った。勤労挺身隊を「日本軍慰安婦」と誤解する視線のせいでキムさんが体験した多くの苦しみを、私は記事に全てはどうしても記せなかった。あの日、私は胸の片隅にこみ上げてくる恥ずかしさで顔が上げられなかった。「57年もたった話を改めて引っ張り出して何になるのかという考えが脳裏の片隅に残っていたためだった。生きている現在をなぜ私は遠い過去だと思っていたのか」と私は反省した。
強制動員被害賠償訴訟は1992年に日本政府を相手取って始まった。訴訟に参加したキム・ヘオクさんは遂に名誉回復されず、2009年に亡くなった。イ・クムジュさんは2021年に亡くなった。彼女たちはなぜ、こんなにも長い歳月を損害賠償訴訟にしがみついていたのか。私はその日、このような答えを聞いた。「私たちも人間じゃないか! 彼らが過ちを犯したことを認めてほしい、誤ってほしいからだ」
政府は強制動員を行った企業に賠償を命じた最高裁(大法院)判決を紙切れにしてしまい、韓国企業が参加する「第三者」による賠償方針を明らかにした。それは、被害者が闘ってきたのは単なる金のためだと言っているのと同じだ。キム・ヘオクさんと同じ工場で働いていたヤン・クムドクさんは「物乞いして渡されるような金は受け取らない」と言った。人を人として待遇することがどれほど大切かを分かっている人なら、その言葉の意味が理解できるはずだ。
あちこちから引き止められ、懸念する人が多かったにもかかわらず、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は今回の決定を推し進めたという。これから起こることを考えると絶望的な気持ちになる。振り返ってみれば、尹大統領の言行からは、人間から尊厳を除去し、人間を単なる「市場価格で使える労働力」と見る視点が早くからにじみ出ていた。
2021年7月に政界進出を宣言した彼は「毎日経済」とのインタビューで、スタートアップの青年たちの願いだとして次のように述べている。「ゲームをひとつ開発するためには週52時間ではなく週120時間であろうとしっかり働き、その後に思う存分休めるようにしなければならない」。状況によっては時にそのような選択を好む人はいたとしても、制度的にそれを望む労働者はいない。それは労働者にタイミング(1970~80年代に多く売れた眠気覚まし薬)を飲ませながら働かせていた昔の雇い主たちの郷愁に過ぎない。
韓国は先進国というには労働時間が長すぎ、長時間の無理な労働の中で労災が途方もなく頻繁に起きる国だ。「週52時間上限」もまだ定着したとは考え難い。しかし尹大統領は最大週69時間働けるよう法を見直すと述べた。反発が強まると「60時間以上は無理」として自身の言葉を変え、世論の矢を雇用労働部に向けようとしている。2020年7月にはタイミング錠が27年ぶりに再発売されたが、大統領はその売り上げに貢献したいのだろうか。
雰囲気が高揚してくると酔う人も出てくる。時代転換のチョ・ジョンフン議員は先日、外国人家事労働者への最低賃金の不適用を認める法案を代表発議した。以前ソウル市のオ・セフン市長が主張していたことだが、尹大統領の前でタンバリンを打っているのだと思う。同議員は「この法が実現すれば、シンガポールのように月100万ウォン(約10万1000円)水準の外国人家事ヘルパーの使用が可能になる」と述べた。シンガポールで行っているからといって「差別される身分の創出」を正当化することはできない。時間が逆に流れようとしている。共同発議者として署名した共に民主党のキム・ミンソク、イ・ジョンムン両議員は発議者から降りた。「実務上の混乱」だったというが、そうではないと思われる。
チョン・ナムグ|論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )