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[徐京植コラム]「数」で語るな、個々の痛みを語れ

登録:2023-03-03 09:09 修正:2023-03-03 09:45
ウクライナ戦争による民間人死者8000人と今回の地震による5万人、前者の方が「軽微」だなどと言ってはならないが、暗黙のうちにそうした比較が行われていないか。死者の一人一人にとっては、自分のその時が人生の最後であり、絶対の瞬間なのだというのに。これら「数値」は確かに一つの判断基準ではあるが、他方ではそれは想像力を麻痺させる機能も合わせ持つ。
Jaewoogy.com//ハンギョレ新聞社

 もう、たくさんだ! 神よ、あんまりだ!……

 そんな被災者の声が伝えられる。一般にイスラム教徒の民衆は、過酷な試練に出遭ってもそれを「神の意志」と受け止めて、神への恨みごとはほとんど口にしないと言われる。これがどこまで妥当な見解か私には即断できないが、今回は様子が違っているというのだ。

 去る2月6日から7日にかけて、トルコ南部、シリアとの国境地帯を大地震が襲った。それからあっという間に3週間近くたったが、最新の情報では死者の数はトルコとシリアを合わせて5万人を超えたという(2月25日現在)。

 「5万人」とは…。ロシアのウクライナ侵攻からちょうど1年目を迎えて、ウクライナ一般市民の死者数は8000人あまり、その内487人が18歳未満の子どもだという報告が出ている(2月24日、国連人権高等弁務官事務所発表)。わずか1年間で8000人という民間人死者数だけでも想像を絶すると言えるのに、それが一瞬にして5万人とは。しかも、この被災地は長く続くシリア内戦によって極度に荒廃した地域だ。被災住民の多くは「国を持たぬ民」と言われる少数民族クルド人である。ある報道によれば、トルコ中央政府からの救援の手がなかなか届かないのは自分たちが圧迫されている少数派だからだ、という嘆きの声も聞かれる。「見捨てられた人々」というのが当たっているかもしれない。極限状態の中では時として、「神よ、私を見捨てるのですか」という絶望の問いが発せられる。例えば、ホロコースト渦中の強制収容所などだ。今また、私たちはその問いに直面している。

 ちなみに、2011年の東日本大震災における死者数は1万5900人、行方不明者は2500人あまりという。2004年のインドネシア・アチェ州沖での地震での死者数は約23万人、2010年ハイチ地震では約32万人が犠牲になった。インドネシアとハイチについて現在、地球上のどれだけの人たちが記憶しているだろうか?

 ウクライナ戦争による民間人死者8000人と今回の地震による5万人、前者の方が「軽微」だなどと言ってはならないが、暗黙のうちにそうした比較が行われていないか。死者の一人一人にとっては、自分のその時が人生の最後であり、絶対の瞬間なのだというのに。これら「数値」は確かに一つの判断基準ではあるが、他方ではそれは想像力を麻痺させる機能も合わせ持つ。「ものすごく多い」と言って済ませることは、何も考えないに等しい。それはたんなる幸運によってであれ、何らかの卑劣さによってであれ、たまたま生き残った者たちの発想であり、安全地帯に身を置いて地図上で(コンピューターの画面上で)戦争を(破壊と殺戮を)遂行する者たちの発想である。だから人類は核兵器を手放すことができないのだ。ロシアはウクライナへの核攻撃をチラつかせているが、これが明日にも歯止めを失って暴走する危険性は現実に迫っている。そうなれば、「8000人」という死者数はすぐにも十倍、百倍にも跳ね上がるだろう。

 一人の犠牲者のために涙を流すのも人間なら、犠牲者が何十万人になろうと眉一つ動かさないのも人間である。そこには、人種差別や民族差別、植民地主義、利潤第一主義、国家主義など、人間を非人間視する心理的メカニズムが作動している。「あの人はユダヤ人だから」「黒人だから」「朝鮮人だから」「女だから」…。その心理メカニズムによって被害者を他者化し、自分自身を免責しようとする。ガザのパレスチナ人の命はウクライナ人のそれより軽く、ハイチ人の命は欧米人のそれより軽いのである。

 では、私たちは、「もうたくさんだ!」という叫びを、どのように言葉や形に表すことができるのか、いかにしてその叫びを「神」や「為政者」に届けることができるのか? これが現在突きつけられている重大な問いであり、あえて言えば芸術的挑戦でもある。実は人類はずっとこの問いを突きつけられてきた。特に第二次世界大戦の終焉と核戦争の危機に覆われた東西冷戦の時代には。だからこそ、それらの時代に、平和運動の思想は世界各地で深化した。人類はこの問いに答えることができたとは思わないが、少なくとも問いそのものの重要性については認識が共有されつつあった。だが現在は、それらの問いと理想は打ち捨てられ、「死のイデオロギー」が再び世界を覆いつつある。

 報道によればロシアのプーチン大統領は去る11月25日、モスクワ郊外の公邸で、ウクライナ侵攻作戦の兵員補充のため招集された動員兵の母親らと懇談した。プーチン氏は「痛みを共有している」と前置きした一方、「人は必ず死ぬものだ」と述べたという。「ロシアでは年間約3万人が交通事故で死んでおり、アルコールでも同程度、死者が出ている」と語った。そして「重要なのは、どのように生きたかだ」と訴え、「我々は目標を達成しなければならないし、疑いなく達成する」と述べた(読売新聞オンライン2022/11/26)。交通事故死やアルコール中毒死と戦死とを「数値化」して均質化して見せたのである。

 実に興味深いテクストだ。「人は必ず死ぬものだ」…そのとおり。プーチン氏に教えられるまでもない。ただ「重要なのは」「どのように生きたか」という人生の意味や価値を決めるのは、プーチン氏ではない、ということだ。人が個人の生命や財産、家族や友人といった私的な価値を超えた何かのために(例えば愛のために、平和という理想のために、あるいは美のために)命を捧げるということは常にあり得る。ただそれを択ぶのは、国家や為政者ではなく、「その人」でなければならない。これが20世紀の大量破壊戦争以後に、確立されたとまでは言わないにせよ広く共有されたはずの価値観であった。そう思っていた私は愚かだったのだろうか? そうかもしれない、振り返って苦い思いを禁じ得ない。

 プーチン氏の談話には、笑ってしまうほど典型的な20世紀前半までの全体主義イデオロギーが臆面もなく再表明されている。国家主義が「死」のイデオロギーによって粉飾されるというのは、私たちにとって見慣れた光景だ。朝鮮民族の多くは植民地支配を通じて「天皇制イデオロギー」を押し付けられ、死に追いやられた。そこでは、天皇制国家のために死ぬことは「永遠の生」を得ることだと強調された。そのイデオロギーを叩き込まれた若者たちが大義のない戦いに、あるものは進んで、あるものはイヤイヤながら動員され、無残に死んだ。そのことを、忘れてはいないか?

 「人は必ず死ぬものだ」…一見深遠に見えるこの説教は、徹頭徹尾シニカルなものでしかない。新しいところの全くない、凡庸で古びた軍歌でしかない。ましてそのプーチン氏を(実態はどうあれ)80パーセント以上のロシア国民が支持しているというのだ。

 現在のところウクライナ戦争の先行きは見えない。今後さらに多くの破壊と殺戮が積み重ねられるだろう。さりとてNATOなどいわゆる「西側」に、無条件に支持すべき大義があるわけでもない。さらに地震などの大災害が追い討ちをかける。日本の為政者たちはこれを奇貨として戦後の平和主義的政策の形骸化に精を出している。行き着く先は憲法9条の改悪であろう。実に暗澹たる時代である。

 私たちはどう生きるべきなのか。答えは簡単ではない。少なくとも肝に命じるべきことは、物事を「数値化」して語ること(政治家的あるいは軍人的発想)を拒絶し、いつも個別の、一人ひとりの、痛みや孤独、憤り、に即して語ろうとすることの大切さだ。難しい課題だが、それを実践しない限り、私たちはついに権力によって利用され尽くして終わるだろう。「人は必ず死ぬものだ」…そうであるからこそ、私たちの生の主権者は私たち自身でなければならず、その生は(その死も)権力者によって搾取されてはならないのである。

//ハンギョレ新聞社

徐京植(ソ・ギョンシク)|東京経済大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1081941.html韓国語記事入力:2023-03-03 02:35

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