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[徐京植コラム] ウクライナ事態、理想なき時代に正気を保つ

登録:2022-02-26 06:47 修正:2022-02-26 06:58
//ハンギョレ新聞社

今日は2022年2月19日である。昨日、私は満71歳になった。メンタル関係の病に苦しんでいた妻がようやく回復の兆しを見せ始めたので、私の誕生祝いを兼ねて、連れ立って松本市に短い旅に出かけた。松本は長野県中部、安曇野(あずみの)と呼ばれる地域に位置し、標高2000メートル級の山々に囲まれる中都市である。市内の随所に清冽な水が湧く井戸があり、市民は自由にその水を味わうことができる。妻は小学生のように喜んで井戸に駆け寄り、持ち歩いている空き瓶に水を汲んだ。通りがかりの古い洋菓子店で一休みして、甘い菓子とコーヒーを摂った。80歳をすぎたと思える老主人が、いまも現役で菓子づくりに励んでいた。店の壁に面白い絵が架かっているのに妻が気づいて尋ねると、地元では有名な画家の作品だという。いかにも松本らしく好もしい。今はコロナ禍のせいもあって人通りも少ない。穏やかな休日であるはずだった。だが、私の心は落ち着かず、憂いに閉ざされている。その憂いが妻にまで感染しそうな緊張を覚えていた。

 ロシア軍がウクライナ国境に結集している。米国のバイデン大統領は18日の記者会見で、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について、「現時点でプーチン露大統領が決断したと確信している」と語った。「ロシア軍がこの1週間から数日間にウクライナを攻撃すると信じる理由がある。キエフが標的になるとみている」と述べたという。世界は戦争の危機の瀬戸際にある。

 こういう時代を、なんと呼ぶべきか? 私は、「理想なき時代」と呼ぶことにした。

 

 ノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチに『セカンドハンドの時代』という著作がある。いま思えば卓抜なタイトルだ。この場合の「セカンドハンド」とは、「理念」の中古品という意味である。ソ連という実験が挫折し、社会主義の理念も崩壊した。ゴルバチョフの改革も新自由主義の跳梁跋扈を招き、貧富の格差は極大化し、民族間紛争も再燃した。旧ソ連を構成した国々の多くで権威主義の体制が築かれた。ウクライナの軍事的緊張も詰まるところ、ソ連崩壊によってもたらされた事態である。「ユートピアの廃墟」である。その廃墟で私たちはどう生きるべきなのか。加えて、2年以上続くコロナ禍が私たちを脅かし続け、一方でI T関連や製薬関連の企業は空前の利潤を得ている。理想を掲げる志が省みられず、むしろ冷笑される時代、力と金(カネ)だけを真実とする時代、したがって、必然的に国家主義が横行し、守るべき理念を失った人々が、その国家主義に進んで追従する時代、いま私たちが生きているのは、そういう時代である。

 過去から一貫して、あらゆる戦いの背景には、覇権国家の征服欲、支配者の権力欲、そして権力に取り入って巨利をむさぼる者たちの物欲があった。むしろ、こうした「欲」こそが戦いの真の動機であった。ただし、ある時期までは、そのような「欲」とともに、常に「理想」(大義)が語られた。階級解放、民族解放、平等と自由などである。それらは「欲」という真相を覆い隠すイデオロギー的タテマエという側面があったことは否定できないが、そのような「理想」のために自らを犠牲に供した多くの人々が存在した。例えば、名著『奇妙な敗北』で知られるフランスの歴史家マルク・ブロックは第二次大戦中、レジスタンス闘争に参与し、ドイツ軍によって道端で銃殺された。彼が命を捧げたのは「フランスという国家」ではなく、その国家に体現しているはずの「自由・平等・友愛」の理想であった。

 1951年生まれの私の人生の時間内でも、アルジェリア戦争、ベトナム戦争、キューバ革命、南アの反アパルトヘイト闘争などがあった。それらの戦いで犠牲になった人々は、戦いを貫いている「欲」の原理について無知だった愚か者なのか。そうではあるまい、「欲」の醜悪さを熟知しながら、むしろしばしば自分自身がその「欲」によって理不尽な犠牲を強いられながらも、それでも「理想」の側に立ち続けることを選んだのである。かりにその人々は国家権力や貪欲な資本に欺かれ、利用されたのだとしても、人々が胸に抱いた「理想」そのものが虚妄であったのではない。かりにそれすら放棄してしまったら、残るのは赤裸々な欲だけである。人間社会は指針を失って永遠に漂流するだろう。

 ところで、いま、私たちの世界では、どんな「理想」が語られているだろうか?

 ウクライナでいったん戦火が噴きあがれば、瞬時に何万もの人々が死傷するだけでなく、そこから終わりのない内戦状態が始まるだろう。この何万人、何十万人は、いったい何のために、どんな「理想」のために犠牲となるのか。ロシア側であれ、ウクライナ側であれ、この犠牲を説明する「理想」(大義)は見出し難い。あるのは「欲」を正当化するための浅薄で野卑な口号だけである。

 洋菓子店を出ると、外気は零下の寒さだが、空はきれいに晴れ上がっていて、周囲の峰々が雪を頂いて白く輝いていた。20年ほど前、北イタリアのトリノで、雪をいただくアルプスの峰々を遠望した瞬間を思い出した。アウシュヴィッツ生存者プリーモ・レーヴィの生家を訪ねた時のことである。その厳しく清浄な山岳地帯でレーヴィは対独レジスタンス活動に従事し、そこで捕らえられたのだ。強制収容所の日々を生き延びてトリノに帰還した彼は、破壊された人間性の再建という「理想」を最後まで手放さなかった。解放からおよそ40年後、レーヴィはトリノの生家で自ら命を絶った。彼の命を奪ったのはナチの収容所ではなく、忘れっぽく無関心な人々に満ちている外界の日常であった。トリノから見えるアルプスを、かつて私は「理想の光に輝く白い峰々」と呼んだ。一見すると平和そのものの松本で、安曇野の峰々を眺めて私は思う。「理想の光」はもはや永遠に失われたのか。

 歴史上「理想」はしばしば人々を欺くための題目に過ぎなかった。つらくとも、そのことを認識することは必要だ。だが、「理想」など初めからすべて虚妄だと断じて、シニシズムに徹することは、決して平和や幸福に近づく道ではない。「理想なき時代」に正気を保ち続けることは、何と困難なことか。それでも、挫折の痛みを噛み締めながら、傷ついた理想を修復し再建するため正気を保ちつづけるほかないのである。

 韓国の大統領選挙が目前に迫っている。私も東京で在外投票するつもりだ。国内外の同胞にあえて呼びかけたい。投票に際しては、あの暗黒の維新独裁時代から「5・18」、「6月民主抗争」を経て「ロウソク示威」に至る困難な闘争の時代の涙と歓びを思い出そう、私たちを常に鼓舞した誇らしい「理想」の数々を、と。

//ハンギョレ新聞社

徐京植(ソ・ギョンシク)|東京経済大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

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