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[コラム]ニクソン・ドクトリンと韓国初の国産ミサイル、そしてミサイル指針

登録:2021-05-27 06:39 修正:2021-05-27 07:46
クォン・ヒョクチョル論説委員
米国のリチャード・ニクソン大統領(上)と朴正煕大統領//ハンギョレ新聞社

 米国は1969年、「アジアの問題はアジア人同士で解決せよ」というニクソン・ドクトリンを発表し、ベトナム戦争から手を引き始めた。1971年には京畿道東豆川(トンドゥチョン)にあった在韓米軍第7師団も撤退させた。当時、韓国が軍人5万人をベトナムに派兵し、米国を支援していたにもかかわらず、米国は韓国の反対を押し切って、第7師団の撤退を強行した。

 米国を信頼できなくなった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、自主国防に乗り出した。韓国軍の戦力増強事業である「栗谷事業」を始め、秘密裏に核兵器とミサイル開発に着手した。兵器開発には機密を守るため“偽装の事業名”が使われる。1974年、ミサイル開発事業は「航空工業計画」として大統領の裁可を受けた。誘導弾研究所は「大田(テジョン)機械倉」と呼ばれ、忠清南道泰安郡(テアングン)にある国防科学研究所(ADD)の安興(アンフン)飛行試験場は「安興測候所」に偽装された。

 1978年9月26日にミサイル発射実験に成功し、韓国は世界で7番目のミサイル開発国となった。初の国産ミサイルは、米国の「ナイキ・ハーキュリーズ」を改造した地対地ミサイルだった。同ミサイルは当時「白熊」と呼ばれていた。大雪に見舞われ、安興飛行試験場の屋外で働いていた研究員の姿が、北極熊のように見えたからだ。

 白熊の打ち上げに対し、周辺大国は敏感な反応を示した。白熊を核兵器の運搬体とみなしたのだ。朝日新聞は「核開発と関連があるものと見られる」と報じ、ソ連国防省は「韓国の核開発を警告する」という声明を発表した。米国も「弾道ミサイル開発後には核を開発するのか」と韓国政府を追及し、「ミサイルの射程をソウルから平壌(ピョンヤン)への打撃が可能な180キロメートルに制限するよう」韓国政府に圧力をかけた。当時、駐韓米国大使や米政府特使まで国防科学研究所を訪れ、ミサイル開発の中止を求めた。

 1979年7月、ジョン・ウィッカム在韓米軍司令官は、ノ・ジェヒョン国防部長官に手紙を送り、ミサイルを作らないよう求めた。同年9月、ノ長官は「(米国が受け入れ可能な)射程180キロメートル以内、弾頭重量500キログラム以内で開発する」と返信した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領と米国のジョー・バイデン大統領の首脳会談で終了を迎えた「ミサイル指針」の始まりだった。これまで「韓米ミサイル指針」と呼ばれてきたが、「ミサイル指針」が正確な名称だ。両国の合意によるものではなく、韓国が自ら守ると通知した「ミサイル開発自主規制書簡」であるからだ。

クォン・ヒョクチョル論説委員(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/996774.html韓国語原文入力:2021-05-27 02:39
訳H.J

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