尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が昨年3月、韓日関係の最大争点である強制動員被害者賠償に関して、韓国の財団が日本企業の賠償金を肩代わりする「第三者弁済」を強行し、被害者の苦しみがより一層大きくなっている。「第三者弁済」の受け入れの可否によって被害者が分裂し、日本側では「韓国が処理すべき問題」だとして完全に他人事のように対応しているからだ。強制動員の被害者だけでなく、彼らを数十年間支援してきた日本の良心的な市民社会も大きな傷を負った。
15日に光復79周年を迎えるが、強制動員問題は依然として現在進行形だ。先月10~11日、17~18日、日本の富山、京都、大阪で、強制動員被害者を短くは27年、長くは45年にわたり支援してきた日本の市民活動家3人に会い、話を聞いた。
「50年たってもあれほどの怒りを見せるとは、どれほど悔しかったことか。何かしなければと思いました」
先月17日、京都で会った「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」の活動家、中田光信さん(70)は1997年、強制動員被害者の故ヨ・ウンテク(1923~2013)さんに初めて会ったときのことを今でも鮮明に覚えていると語った。「ヨさんは『あの時(日本製鉄から)お金をきちんともらっていたら、牛を買うことができたし、人生が変わっただろう』と言いました。70歳を超えた当時まで、胸に抱いて生きて来たのです」
ヨさんは20歳だった1943年6月、日本製鉄大阪製鉄所に強制動員され、溶鉱炉に古鉄を入れるつらい労働に苦しめられた。食べ物も十分に与えられず、強圧的で劣悪な労働環境に耐えなければならなかったうえ、給料もまともにもらえなかった。地獄のような労働は1945年8月、日本の敗戦で終わったが、日本製鉄の謝罪や賠償など強制動員問題はいまだ解決していない。
「2018年、韓国の最高裁(大法院)で勝訴した時、大変嬉しい一方、悲しかった。画期的な判決でしたが、結果が出るのがあまりにも遅くなってしまい、訴訟に臨んだ4人のうち3人がすでに亡くなった後でした」。1997年12月、ヨ・ウンテクさんとシン・チョンスさんが大阪地裁で損害賠償訴訟を始めたが、2003年10月、日本の最高裁で敗訴した。2005年、キム・ギュスさんやイ・チュンシクさんが加わり4人が原告になってソウル中央地裁で損害賠償訴訟を起こし、2018年の最高裁で最終的に勝訴した。日本の訴訟まで合わせると、21年ぶりの快挙だった。
40代初め、京都市の公務員だった中田さんは、今年70歳になった。公務員労組で活動しながら社会問題に関心が多かった彼は「韓国人徴用工訴訟を手伝ってほしい」という要請に軽い気持ちで応じたつもりが、「このように長い間共に戦うとは思わなかった」と語った。「韓日を行き来しながらヨ・ウンテクさん、シン・チョンスさんと寝食を共にしているうちに、いつの間にか家族のようになりました」
韓国人強制動員被害者を捜し出し、法律支援に乗り出すことはもちろん、日本の戦犯企業を相手に抗議活動を行い、宣伝活動や募金運動など、強制動員被害者の長い闘争は日本の市民社会の献身がなければ不可能だった。
日本製鉄強制動員闘争の歴史をしばらく説明していた中田さんは、日本企業の代わりに韓国の日帝強制動員被害者支援財団が慰労金を出す「第三者弁済」の話になると、深いため息をついた。「それぞれの事情があるので仕方ないことだが、一緒に闘っていた被害者たちが二つに分かれてしまい、気持ちが複雑だ」と語った。また「2018年の韓国最高裁の判決には強制動員被害者の人権をいかに守り、回復するかが含まれていた」とし、「これをなぜ韓国政府が自ら否定するのか、理解に苦しむ」と批判した。中田さんは「日本社会は『歴史否定』などますます悪化している。過去にきちんと向き合うのは日本のためにも必ず必要だ」とし、「この闘いをあきらめない」と強調した。
先月10日、富山で会った「不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」の中川美由紀事務局長(63)も、28年間にわたり強制動員被害者を支援してきた「日本の良心」の一人だ。
「1992年にニュースで白いチマチョゴリ(韓服)を着た不二越強制動員被害者のおばあさんたちを見ました。問題を解決しろと涙を流しながら叫ぶ映像でしたが、大変ショックを受けました」。富山で大学在学中に学生運動をしていた中川事務局長は、1996年から本格的に不二越問題に取り組んだ。
富山にある不二越は太平洋戦争末期の1944~1945年、朝鮮半島から12~16才の少女1089人を勤労挺身隊として動員し、過酷な労働を強いた。1992年に3人の被害者が損害賠償訴訟を起こし、無期限ハンガーストライキなど激しい闘争を展開した結果、2000年7月に日本の最高裁で不二越が解決金を支給するなど「和解」を成し遂げた。これを皮切りに、2002年には弁護士や宗教関係者、市民が不二越強制動員被害者の訴訟を助ける「第二次強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」を作り、本格的な訴訟闘争に乗り出した。2003年に富山裁判所で訴訟を起こし、長い法廷闘争を続けたが、2011年に日本の最高裁で敗訴した。2013~2014年にソウル中央地裁に再び訴訟を起し、今年1月に韓国の最高裁で最終的に勝訴した。勝訴者は計41人、被害当事者のうち生存しているのは8人だけだ。
「2010年に不二越の東京事務所前に抗議集会をしに行きました。キム・ジョンジュさんがビルの中にこっそり入り、15階に閉じこもって何時間も叫び続けて抵抗しました。不二越側は大騒ぎになりました」。中川事務局長は「被害者たちは本当に必死に闘った」と語った。被害者たちの憤りをよく知っている彼女は「第三者弁済」について「腹が立つ」と言った。「韓日両政府から徹底して無視される中、被害者たちは孤独に闘った。『第三者弁済』は問題を解決するのではなく、妨害する案」だと批判した。
「第三者弁済」を拒否する被害者もいるため、闘いはさらに長くなる見通しだ。中川事務局長は「強制動員問題においては私も当事者」だとし、「日本で在日コリアンや外国人労働者などが依然として差別を受けている。日本社会を少しでも変えるために、過去の植民地支配の責任を問う闘いを続けていきたい」と語った。
先月18日、大阪で会った「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の市場淳子代表(68)は、45年間も韓国人被爆者たちと共に闘っている。広島県出身で薬学部に進学した市場代表は、大学1年生の時の1975年、韓国人被爆者問題を知り、人生が変わった。命をかけて日本に密航し、自身の原爆被害を訴えた「孫振斗(ソン・ジンドゥ)闘争」を通じて韓国人被爆者のことを知り、1979年から本格的にこの問題に取り組んできた。
「1979年1月、原爆被害の実態を調査するために初めて韓国に行きました。2週間の滞在でしたが、ショックを受けました」 。貧しい原爆被害者たちは病院にも行けず、薬草を食べて痛みに耐えていた。強制動員に原爆という「二重被害」に遭った三菱重工業広島造船所、機械製作所の出身者たちが1967年に韓国原爆被害者協会を作って闘争を始めたが、状況はあまり変わらなかった。
日本の市民社会の支援で、1995年12月、広島で強制動員と被爆に対して賠償を求める訴訟に入った。勝ち目のない闘いだと、訴訟に反対する人も多かった。市場代表は「その時、被害者のパク・チャンファンさんが『私たちが負けたとしても、当時三菱でどんな目に遭ったのか裁判を通じて歴史に残すことができる』と説得し、陳述できる健康状態の46人が参加した」と説明した。
少しずつ壁が崩れてきた。2007年、日本の最高裁で韓国人被爆者に対する一部賠償が認められた。光復から62年目にして成し遂げた大きな成果だった。その後、法廷訴訟を続け、今や韓国の被爆者たちも日本の被爆者に準ずる恩恵を受けている。強制動員訴訟は2000年5月、釜山地方裁判所に訴訟を起こし、18年ぶりの2018年11月に韓国の最高裁で最終的に勝訴した。
だが「第三者弁済」が出てきてから問題がこじれてしまった。「韓国で『第三者弁済』という案が出てくるとは思いもよりませんでした。とてもがっかりしました」。市場代表は「第三者弁済を受け入れた被害者がいるため、三菱重工業を相手に謝罪と賠償を受けるのがさらに難しくなった」と懸念した。
「それでも闘わなければ」と言う市場代表が、いつも大事にしている言葉だとして、三菱に強制動員され原爆被害まで受けた故チョン・チャンヒさん(1923~2012)の話を聞かせてくれた。チョンさんは、韓国原爆被害者協会の事務局長を務め、生涯日本を相手に闘ってきた人物だ。市場代表はチョンさんが亡くなる前、最後に会った時に「どうやって生涯にわたって闘うことができたのか」と尋ねた。チョンさんは「いつかは良いことがあると信じてここまで来た」と答えたという。市場代表は「私も同じだ。闘う韓国人被害者と最後まで(行動を)共にする」と語った。チョン・チャンヒさんの息子、ジョンゴンさん(67)は今年3月、東京にある三菱本社を訪れ、「第三者弁済を拒否し、父の闘いを受け継ぐ」と話した。