ビクトリアさん(28)は9歳のオレクシー、生後1年4カ月のエリッセイの母親だ。ロシア軍がキーウ占領を目指して進撃してきた3月初め、子どもたちと共に家を離れた。彼女が住んでいたのは、キーウから西に130キロほど離れたジトーミルという町だ。幸い、叔父と妹の家族がスペインのバルセロナに住んでいた。ビクトリアは子どもたちを守るために避難を決心した。「もともとこんなに長く国外にいようと思っていたわけではなかったのに…」。彼女は言葉を詰まらせた。
避難した所は安全だったが、穏やかではいられなかった。3回も家に帰ろうとしたが、戦争が終わる気配が見えなかった。彼女が帰郷の意思を明らかにするたびに、妹と叔父が引き止めた。そのたびに子どもたちが心配になって帰れなかった。だが先日「これ以上はだめだ」と考え、決心を固めた。彼女は、このところ町は少し静かになり、爆弾の洗礼は大したことはなかったらしいと述べた。
帰郷後は、地域の防衛軍として活動しながら両親の世話をする夫を助けるつもりだ。ビクトリアさんが「パパ」の話をしだすと、エリッセイがぐずりはじめた。ビクトリアはひざを上下させて子どもをあやした。「もう無理に他国には行かないようにしようと思っています。夫がとても恋しいです」。まだ戦争は終わっていないが、夫と再会できるという思いで、また他人の助けなしに自立できるという期待で、すでに胸がいっぱいなようだった。
ビクトリアさんの斜め前の席に座っていたデンマーク人のクルキさん(57)が口をはさんできた。クルキさんは、ウクライナ難民が「戦争を逃れてヨーロッパに行っても困難なのは同じだ」と語った。「その国が受け入れてくれても、食べていくためには職に就かなければならないわけで、それは易しいことではありません。交通を無料にしてくれたり食べ物を提供してくれたりすると言っても、それですべて事足りるわけではありません」。薬剤師のクルキさんはキーウでボランティアをしに行くという。
午前4時50分。はるか東の空から昇る赤い太陽がバスの窓の中へと差し込む。国境を越えたバスは、ウクライナ西部の町リヴネで最初に停車した。朝の空気が冷たい。5分ほど経つと、隣のプラットフォームに似たような大型バスが入ってきた。チェコの首都プラハから同じく夜を徹して走ってきたバスだ。2人の中年女性が降り、タクシーを拾ってどこかに去っていった。停留場近くに見えるアパートはとても古く、ところどころペンキがはがれ落ちていた。ベランダに干してある赤い洗濯物が目立った。
しばらくのあいだ言葉を交わし合ったビクトリアさんは、再び2時間ほど走った後に到着したジトーミルで午前7時35分に降りていった。夫であり子どもたちの父親である男性が迎えに来ていた。
バスは再び4、5時間走り、午前9時45分にキーウに到着した。バスの窓の外では、日がだんだんと高くなっていた。車窓からは広々とした平野がしばしば見えた。ある地区の入り口では、戦車を防ぐために設置したとみられる構造物が見えた。砂袋とレンガを数百個積み上げて作られた塹壕は、この場所で熾烈な市街戦が繰り広げられたことをうかがわせた。キーウの中心に近づくと、ロシア軍の爆撃を受けた建物が現れた。誰かの生活の基盤だったはずのアパートは外壁が黒くすすけており、窓がすべて割れていて、骸骨のように見えた。
ワルシャワからキーウまでは約790キロ。直線距離では9時間半の距離だが、検問所の通過にかかる時間のせいで14時間近くかかった。ウクライナ人をいっぱいに乗せたこのバスに、今や難民はいなかった。到着した人々はいつの間にか「市民」となり、各自の生活の場へと散っていった。