慶州(キョンジュ)の新羅の巨大な墓の一部が近い将来開かれる見込みだ。どのような遺跡と遺物が出てくるだろうか。金冠だろうか。金尺だろうか。石塚だろうか。石室だろうか。
ここのところ新羅の古都・慶州が騒がしい。最近、市内の西側に位置する新羅の大型古墳の画期的な発掘の知らせが伝わり、文化財学界の台風の目として浮上した。2年前の台風ヒンナムノー(台風11号)が朝鮮半島を襲い、そのときの強風と豪雨で墳丘墓の一部が崩れた慶州西岳洞(ソアクトン)の古墳群のうち最大の王陵級の墓である4号墳で、4~5月に復旧整備のための発掘調査が行われたところ、学界の通説を覆す墓の構造が確認されたのだ。激しい論議とともに学術発掘を行う必要があるという声が噴出している。
市郊外の乾川邑(コンチョンウプ)の金尺里古墳群でも、国の研究機関が乗りだし、解放(日本の敗戦)後では初めてとなる学術目的の大規模な企画発掘調査に着手した。古代遺産の中心地である慶州で、1970年代以来約50年ぶりとなる大型古墳の発掘調査が本格化する様相をみせている。学界は非常に興奮した雰囲気だ。
■崩れた墳丘墓から突き出た石だけで学界が揺れた
西岳洞古墳群は、新羅の王陵級の古墳群の両軸に挙げられる。麻立干と自身を称した5世紀の王たちの墓群と推定される大陵園に続き、6世紀に慶州の西側にある仙桃山近くに相次いで造成されたと学者たち指摘する遺跡だ。
極端な気候変動で2年前に発生した台風11号によって、新羅の王陵級の古墳の墓の構造をめぐる議論が始まった。2022年、西岳洞古墳群の4号墳の北西側の墳丘墓の被害を復旧するための過程で、現場に視察に出たある文化財委員が、崩れた墳丘墓から突き出た護石と推定される石の形をみて、発掘調査を助言したのがきっかけだった。
西岳洞4号墳はこれまで法興王陵に推定されてきた大型の王陵級の墳墓で、これまで一度も完全な調査が行われたことがなかった。埋蔵文化財調査機関である新羅文化遺産研究院は、4月15日から半月ほど、崩れた4号墳の北西側の断面の精密発掘調査を進めた後、先月3日には現場説明会を開き、2段の護石が密集した状態で支柱石や外道などとともに、調査現場を学界に公開した。
それ以降、考古学界では墳墓の性格をめぐる激しい論議が始まった。調査結果が驚くほど予想外の内容を含んでいたためだ。
これまで西岳洞古墳群は6世紀中盤以降の石室墓で、積石木槨墓である5世紀の麻立干時代の王陵級の墳墓がある大陵園とは明確に区別されるというのが、これまでの学界の断定的な見解であった。
しかし、このような既存の予想を破り、市内の大陵園で見ることのできる積石木槨墓の跡である2段に積んだ護石層の石塚が確認され、学界関係者たちを驚かせたのだ。新羅の墳墓の歴史は、積石木槨墓が市内郊外周辺の山のふもとにある6世紀の石室墓に変貌したというのが、これまで確固たる歴史的通説だったが、このような仮説が大きく揺らぐことになった。
もちろん、石室墓だと主張する声は今でも強い。積石木槨墓の典型的な護石(封墳の周辺を覆う石)が出てきたが、市内の新羅の王陵級の積石木槨墓の周りから出てきた祭事用の壺を埋めた跡はまったく出てこなかった。
また、墓の周囲から出た土器の年代が6世紀中後半だという点、未発掘の西岳洞古墳群を除くと、6世紀中後半に朝鮮半島各地の新羅の墓はほとんどが石室墓だという点も、今なお有力な根拠だ。
墓室の周囲に石塚をたくさん積んだ積石木槨墓の大陵園の墓と、互いに構造がどのように結びついているのかを究明できる端緒が開かれただけに、ほとんどの学界関係者は西岳洞古墳群の本格的な学術調査が必要だとする意見を出している。
実際に学界の論争が深まると、国立中央博物館と国立慶州博物館の関係者らは、70年代の天馬塚の発掘以来約50年ぶりに、王陵級の墳墓である4号墳の再発掘を推進する動きをみせている。
国立慶州博物館のキム・テファン学芸士をはじめとする一部の若手研究者らは、1817年に秋史・金正喜(キム・ジョンヒ)が初めて西岳洞古墳を現地調査し、主要な墳墓の被葬者として真興王、真智王、文聖王、憲安王などを割りあて『新羅真興王陵考』という記録を残したという点で、韓国考古学史の根元を新たに取り戻す歴史的意義があるという評価も示している。
■解放以来初の学術発掘の序幕…牟梁部の実体は
国立慶州文化財研究所が先月27日から発掘チームを設け、本格的な調査に着手した金尺里古墳群は、新羅初期の行政組織の体制である六部の一つ、牟梁部(モリャンブ)の根拠地である乾川(コンチョン)地域にある大型の古墳群だ。慶州中心部の大陵園や路東・路西古墳群の有名な古墳とよく似た形と構造を持っているが、なぜこの古墳群だけ慶州中心部から離れているのか、牟梁部の実体は何なのかをめぐり、長きにわたり疑問を投げかけてきた遺跡でもある。
日帝強占期(日本による植民地時代)から発掘の必要性が提起されてきた歴史があるが、解放後初めて遺跡の歴史的意味を究明するための学術発掘を始めたという面で、意義深いと評されている。現在まで全部で53基の大小の古墳が把握されているこの遺跡は、慶州郊外周辺の古墳群のなかでは最大規模の遺跡で、慶州中心部の大陵園の古墳ともある種の関係があるだろうという推定が提起されていた。
古墳群のうち東側の高地帯にあるひょうたん型の瓢形墳である48号墳が、有力な発掘対象の遺跡として指定されている。研究所のある関係者は「石塚が積み重なった積石木槨墓の遺跡であるため、植民地時代から1980年代まで様々な盗掘犯の侵入を受けてきたが、無事であることが分かっている。金銅冠やガラスの遺物のような様々な高級副葬品が出てくる可能性が非常に高いとみている」と述べた。