古代王国である百済の領域は、東にどこまで広がっていたのだろうか。忠清道と全羅道を越えて慶尚道の内陸の奥深い所まで進出したのだろうか。伽耶を直接支配し、新羅と対峙したのだろうか。
韓国の歴史学界の研究者たちが長い間抱いていた疑問を解く手がかりが、年明けに現れた。智異山(チリサン)の東側の裾にある慶尚南道の山清(サンチョン)の地から、6世紀に精巧に作られた百済風の支配層の古墳が出てきた。洞窟のように古墳の側面を掘り下げていき、遺体を安置する墓室(玄室)を作った古墳だ。何度も葬儀を執り行えるようにした、いわゆる「横穴式石室」墳墓が出現した。百済が高句麗軍によって最初の首都の漢城(ハンソン、現在のソウル)を陥落され、475年に熊津(ウンジン、現在の公州(コンジュ))に遷都した後、武寧王(在位501~523)の治世を機に中興し始めた時期の王族と貴族の典型的な古墳の構造だ。しかも、大伽耶の主要な領域だと思われていた慶尚南道の西部内陸の山清郡にある生草(センチョ)古墳群で完全な百済支配層の古墳が出てきたというニュースに、学界の関心が集中している。
15日午前、山清郡生草面於西里山93-1番地一帯の胎峰山の稜線の裾に、強風と寒さに耐え全国各地から中堅の考古学者たちが集まった。昨年末からこの稜線の裾にあるM32号墳を発掘した極東文化財研究院の現場を見にきた人々だった。山清から流れる鏡湖江を見下ろせる稜線の裾に位置する直径13メートルの封墳を開くと、石塚の石室の構造物が現れた。石室の前方にある羨道(通路)の出入口が開いており、内部の未知の世界へと研究者たちを導いた。リュ・チャンファン研究院長の案内を受け、ヘルメットをかぶり、墓室を結ぶ羨道を通り、墓室に入った。長さ2.8メートル、幅1.7メートルの墓室は、2坪にも満たない4.85平方メートルのやや狭苦しい空間だ。しかし、入った瞬間に眺めた天井と壁面の姿に歓声を上げた。
宋山里(ソンサンリ)型の百済貴族の古墳の特徴であるアーチ形の天井が、ほとんど損なわれずそのまま残っていた。四方の壁がアーチ形の輪郭を描き、天井石に向かい狭まりながら上がっていく、百済の石室墓の特有である虹型もしくは半球型の上部構造だ。6世紀初めの百済が熊津に首都を置いた時期の支配層の古墳の形である横穴式の石室墓の典型的な形だ。羨道に敷石と門柱を置き、門扉石(閉塞石)で塞いで閉鎖した構造は、伽耶人たちの石室や石槨古墳とは大きく異なる百済系統の石室墳の特徴だ。忠清南道公州の宋山里古墳群(武寧王陵を含む)の、いわゆる宋山里型の石室とほぼ同じ構造の首長級の古墳であることが明らかだ。割石で狭まっていく側壁を天井部分まで敷きつめた典型的な百済スタイルの石室だが、宋山里古墳群でも見られない側壁と天井の連結部分や天井の板石まで、すべて完全に残っていた。
武寧王陵や多くの王陵級の古墳がある公州の宋山里古墳群の古墳の様式だということで「宋山里型」と呼ばれるこの古墳の様式が、思いがけず智異山を越えた山清の地の渓谷に現れたという事実は、学者たちを驚かせた。未盗掘古墳だが、残念なことに、当時の百済の風習では副葬品を特に埋めることはなかったため、腐食して失われた棺に使われた釘と小型の手刀以外には他の遺物は出てこなかった。しかし、砂利と粘土が敷かれた状態で整然と並ぶ遺体の場所を表記した墓室の地面からは、死者の霊気が染みでるようだった。発掘の際に封鎖用の石である門扉石が3つも出てきたことから、一人を葬った後に追加で二人の死者を葬ったと推定される。
墓室を見て回った学者たちの間では、なぜ山清に百済支配層の墓室が登場したのかについて、多くの意見が交わされた。百済系の遺跡であることは明らかだが、はたして百済人のものなのかについてが論点になった。忠北大学のソン・ジョンヨン教授は、近くの山城から百済系の遺物である印章が刻まれた瓦が出ており、百済の宋山里型の典型的な墳墓構造だという点を重視した。百済勢力が明らかに山清に影響力を行使した証拠だと解釈された。一方、全北大学のキム・ナクジュン教授と慶北大学のパク・チョンス教授は、百済風の瓦や百済風の墓室は見られるが、住居地や土器など他の決定的な百済人の遺物が出ていないため、大伽耶勢力が当時友好勢力だった百済の葬祭文化の影響を受け、このような形の古墳を築造したのではないかという見解を示した。
百済は5~6世紀に慶尚道に進出し、伽耶の領域を執拗に占有しようと試みた。高句麗に奪われた漢江流域を奪還するために新羅と羅済同盟を結成してからは、後方の防備のために伽耶地域を直接的な支配権のもとに引き入れようと、新羅と水面下で暗闘をした。いわゆる「郡令・城主」という名称で伽耶地域に軍事的な支配権と行政権を行使する官僚を派遣したという史書の記録もある。朝鮮半島をめぐり展開する南北と列強の外交戦が激しい今の状況において、1600年前の朝鮮半島南部を飛び交った戦乱と外交の歴史を改めて思い起こさせる遺跡が、まさに山清の生草古墳群のM32号墳だった。