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[レビュー]不平等は我慢しても不公正は我慢できない「K-能力主義」

登録:2021-10-01 10:04 修正:2021-10-01 12:00
過程が公正だと思えば不平等を受け入れる 
能力主義に傾倒した韓国社会の特徴 
現実では親の支援などでスタートラインが異なり 
「構造問題を個人に転嫁…不平等を再生産」 

『韓国の能力主義:韓国人が進んで我慢すること、あるいは死んでも我慢できないことについて』パク・クォニル著、イデア刊、1万8000ウォン
『韓国の能力主義:韓国人が進んで我慢すること、あるいは死んでも我慢できないことについて』パク・クォニル著、イデア刊//ハンギョレ新聞社

 「不平等」はここ数年、韓国社会の問題点に対する議論が行われるたびに登場する核心キーワードだ。多くの人が「不平等が大きな問題だ」と懸念を示し、怒りを表したりもする。しかし、このような状況とは全く異なる調査結果がある。1981年から2020年までの40年間、世界の社会科学者が参加し4~5年ごとに結果を発表してきた「世界価値観調査」は、質問の一つとして「所得が平等であるべきだと思うか、それとも(努力などによって)もっと差が出るべきだと思うか」と尋ねた。6回目の調査(2010~2014年)の結果によると、韓国の場合、「平等であるべき」の方に賛成した割合は23.5%で、不平等(差が出るべき)の方は58.7%だった。ドイツはそれぞれ57.7%・14.6%、米国は29.6%・36.2%、中国は52.7%・25.8%だった。韓国人の不平等への賛成の割合が目立つ。最近の7回目の調査(2017~2020年)では、韓国人の64.8%が不平等に賛成し、その割合がさらに増した。平等に賛成したのは12.4%にすぎなかった。

 『韓国の能力主義』の著者は、このような調査結果を提示し、自著を「不平等は我慢しても不公正は我慢できない韓国社会と韓国人に対する報告書」と紹介する。著者は「韓国で起こった公正性問題の絶対多数は、結果が不平等だからではなく、過程が不透明だという不満によるもの」と述べる。報酬に近づく機会は公平だったのか、その報酬は能力に応じて十分に分配されたのかを問題視するということだ。逆に言えば、過程が「公正」だったと見なされれば、結果の不平等は受け入れるという意味になる。

 著者によると、このような心性を裏付ける最も重要な要因は、韓国社会の強固な能力主義だ。文字通りには「能力による支配」を意味する能力主義は、現実には「能力と努力にふさわしい報酬体系」という意味で通用している。能力主義の観点からは、能力がより優れており、より努力をした人に、より多くの報酬が与えられるものであり、能力と努力が足りない人にはより少ない報酬が与えられるのは自然なことである。個人間の能力の差は明らかに存在するので、結果として現れる不平等は正当である。こうした能力主義は「長い間韓国人を支配してきたイデオロギー」であり、「韓国は資本主義と能力主義体制の最先端に立った社会」だ。韓国人の過度な教育熱、「スペック」と人脈に対する執着、「悔しければ出世せよ」という地位上昇欲求などは、すべて能力主義と密接に関連しているというのが著者の分析だ。

 韓国で能力主義は科挙制度、社会進化論、立身出世主義、国家試験制度、学歴主義など一連の過程を経て定着し、強化されてきた。いわゆる「K-能力主義」といえる韓国の能力主義の最大の特徴として、学歴(学閥)主義を挙げることができる。多くの人が表向きには学歴や学閥が「真の能力」ではないと言うが、実際には「学歴を能力の指標として」明白に認めている。学歴は一人の能力の産物とされ、個人にとっては地位上昇の最も確実な手段となる。学歴主義は、K-能力主義のもう一つの顔である試験主義と結びついている。試験は、その弊害が指摘され続けているにもかかわらず代案がないという理由で、いまだにもっとも重要な能力評価方法として使われている。問題は「試験による地代追求」の正当化だ。地代追求とは、何の生産性の向上もなく所有権だけを利用して利益を図る行為を指す。一部の試験は、試験に合格したという事実だけで不合格者には追いつけないほどの報償が与えられる。勝者独り占めのピラミッドの中で、試験は「特権の資格者を選別する」過程となる。

 著者は、K-能力主義の特徴を追求した上で、能力主義という理念自体の限界を批判する。「現実的能力主義」、すなわち現実で実際に現れている能力主義は、一種の「偽装された身分制」の姿を呈する。大学入試や企業公開採用、国家試験、法科大学院などの機会は、形式的にはすべての人に開かれている。しかし、親の支援の有無、社会経済的条件などによってスタートラインは大きく異なってくる。「能力を啓発し、努力を傾けられる」ように生活の実質的環境を補うという本当の意味での機会均等はなされない。特定の人により多くの機会を与え、別の人には進入の壁を高める「社会的閉鎖」(マックス・ウェーバー)、「機会の備蓄(opportunity hoarding)」(チャールズ・ティリー)が、能力主義に覆い隠されさらに精巧に持続するだけだ。

 「理想的な能力主義」はどうだろうか。世襲や相続のような要素が排除されているのであれば、個人の能力を基準に資源を配分してもよいのではないだろうか。著者はこれを批判するために、ジョン・ロールズなど社会哲学者らの理論を借りる。「すでに与えられた才能は個人に属するものだが、『各自の才能に差が出る状況』自体はただ偶然的な事件なので、個人がその才能の配分状況に対する資格まで持つことはできない」というのがロールズの主張だ。努力も同じだ。「その人の性格は概して自分の功労だと主張することのできない立派な家庭や社会的環境にかかっているため」だ。努力は客観的な測定が不可能だという難点もある。また、現代の経済学で広まっている「富の主な源泉は共同資産としての知識」という理論を受け入れた場合、個人の貢献は微々たるものだと計算され、能力主義の余地はなくなる。

 能力主義の重要な問題は、不平等と差別、嫌悪と排除を再生産することだ。能力主義が社会を支配し、「不平等という社会構造的矛盾は完全に個人の問題に」転嫁され、「不平等に向かうべき問題意識はすべて不公正論議に巻き込まれてしまう」。著者は「格差と不平等を動力に皆が戦争のように生きなければならない社会は、正義でも、幸せでも、効率的でもない」とし「不公正ではなく不平等自体を改めて喚起し、市民の関心事に戻すべきだ」と述べている。

アン・ソンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
イラスト=チャン・ウニョン//ハンギョレ新聞社
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/1013477.html韓国語原文入力:2021-10-01 04:59
訳C.M

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