驚くべきことだ。大統領になりたいと名乗りをあげた人々がみな同じことを言っている。一様に「公正」を叫んでいる。若い政治家が「公正な競争」を掲げて野党代表になったと思ったら、新たに政治の舞台に登場した有力野党候補は「公正と常識」を叫んでいる。与党候補もさして変わりはない。みな公正を掲げている。このような選挙があろうとは。
このような現象が起こるのにはもちろんわけがある。この社会があまりにも公正でないからであり、不公正と特権に対する国民の怒りが爆発寸前だからだ。だとしても、大統領選の候補がみな公正を最重要公約に掲げる現象は実に奇異だ。私は、みなが「公正」を叫ぶ本当の理由は他にあると思う。実際のところ、公正は既得権勢力を牽制する論理のように見えるが、深く考えれば彼らの特権を守る言説だ。大統領選候補の誰もが公正を叫ぶのは、彼らが韓国社会の根本的な変化を望んでいないからだ。
考えてみよう。果たして公正が実現すれば、韓国社会は良い社会になるのか。世界で最も多くの人が自殺し、世界で最も多くの労働者が仕事で死に、世界で最も多くの子どもたちがうつ病にかかっており、世界で最も子どもを産まないこのヘル朝鮮が幸せの国に変わるのか。社会集団間の対立を意味する「文化戦争」が世界で最も深刻な国(イプソスとキングス・カレッジの共同調査、2021)が平和の国に変わるのか。
国民の苦しみと不幸が急速に極端へと向かっているにもかかわらず、大統領になろうと名乗りをあげた人々の現実認識はあまりにもおめでたく、原因診断はあまりにも安易だ。不公正という反則を正したからといって、この国が良くなろうか。
韓国社会の根本問題は不公正ではなく不平等だ。これほど不平等な国はどこにもない。長きにわたって経済的不平等の代名詞だったメキシコや米国をも追い越して久しい。我々の生活世界も不平等が蔓延している。大企業と中小企業、正規労働者と非正規労働者、首都圏と地方との不平等と差別は、すでに危険水位を越えている。学閥、性別による不平等も想像を絶する。にもかかわらず、これを解決しようとする政治家は見当たらない。本当におかしな国ではないか。このような不平等な国で「公正」ばかりを叫ぶというのは、どういうことを意味するのか。公正になれば自然に平等になるのか。公正の理念が実現されれば、韓国社会は「不公正な不平等社会」から「公正な不平等社会」へと進化するだろう。しかし公正な不平等社会は、ともすると不平等をさらに正当化し、合理化する社会へと堕落しうる。
今回の大統領選挙は、世界最悪の不平等国家を改革する選挙にならなければならない。しかし、選挙戦のどこにもこのような問題意識は見られない。韓国社会は今、「公正のわな」にはまっている。大統領から与党候補から野党候補に至るまで、みな同じだ。不平等は言わず、公正を訴えてばかりだ。
公正は韓国社会では正義のわなとなった。深刻に傾いた運動場で「公正」ばかりを叫ぶのは、不平等を正当化するのと同じだ。公正は、厳格な視点から見れば社会的な既得権を持つ者の論理だ。不平等や差別が支配する社会で叫ぶべきなのは手続き上の公正ではなく、社会的正義だ。
また韓国社会においては、公正は正義を妨げるアリバイとしても機能する。公正の論理は社会的差別と不平等を正当化する時に動員されているのだ。その結果、弱者の正当な権利救済さえ不公正だと攻撃する社会となってしまった。政府がすべきなのは公正な競争の審判役ではなく、平等な社会、正義の通用する国を作ることだ。公正論争そのものを無意味にすることだ。
新自由主義の荒波がもたらしたこの前代未聞の不平等社会において、公正ばかりを語るのは不道徳だ。それは、不正義が支配する場所において革命家ではなく支配者になれと説教することであり、形式的な正当性を付与することで不平等社会に免罪符を与えることであり、すべてを個人の責任へと転嫁し、競争の敗者を顧みない無責任な国に免責特権を与えることだ。韓国社会で言われる公正は、正義を具現化する公正ではなく正義を無力化する公正だ。それは単に競争をあおるだけの「新自由主義的な交換手続き」(チェ・ジョンニョル)だ。
韓国社会は「公正のわな」にはまり、正義の地平へと向かえずにいる。韓国人は公正イデオロギーの監獄に閉じこめられた囚人だ。政治家たちはいつまで国民を偽りのイデオロギーの監獄に閉じ込めておくつもりなのか。
キム・ヌリ|中央大学独語独文学科教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )