‘じっとしていなさい’にやられた日本の大川小学校惨事から3年
「長い道だったでしょう?」 13日午後6時、日本 宮城県の東北部にある石巻市立大川小学校の校庭。 車から降りると現場で待っていた人の良さそうな顔の男が笑顔で名刺を差し出した。 地震が発生し、津波が押し寄せ、小学校5学年だった彼の娘 千聖(ちさと)さんが亡くなってから既に3年の月日が過ぎたが、彼の名刺にある肩書きは今も‘大川小学校遺族’紫桃隆洋だった。 惨事が起きた学校の建物は相変らず廃虚のまま放置されていて、運動場のまん中には児童74人と教師10人の無念きわまりない死を慰める慰霊碑がぽつんと立っている。 津波が押し寄せた学校の北側の新北上川から吹く夕方の強風が冷たく感じられた。
紫桃氏は「セウォル号事件と同じように大川小学校でも十分助けられた筈の子供たちが亡くなった」と話した。
2011年3月11日午後2時46分。 宮城県から東南側に130km離れた海底でマグニチュード9.0規模の大地震が発生した。 狂ったように揺れる建物の振動が徐々に収まると教師たちは急いで子供たちを運動場に待避させた。 6分後に高さ10mの巨大津波が襲うだろうという警報が発令された。 数人の子供たちが泣きながら教師たちに「裏山に逃げよう」と言った。
2011年3月11日、マグニチュード9.0の大地震
日本の大川小学校の児童たちは
歩いて10分の距離の裏山に逃げると言ったが
教師たちは子供たちを運動場に50分もいさせた
そこを襲った巨大津波で74人の命がなくなった
当時、紫桃氏は学校から40km程度離れた職場にいた。 彼は「心配だったが、運動場の裏に山があるので、娘は無事に待避しただろうと思った」と回想した。 それでも不安な気持ちで学校に向けて車を運転した彼は、川に乗って逆流する最初の津波を見た。 屈せずに前進すると再び2回目の津波に出会った。 死ぬ思いで危機を乗り越えた紫桃氏は「みぞれも降っていて子供たちが寒がっているだろう」と考えた。 当時、事故で9才の娘 未捺(みな)さんを亡くした只野英明氏も「父母はみんな子供たちは無事だと信じて疑わなかった。 このような惨事が起きているとは想像もできなかった」と話した。
紫桃氏と只野氏の案内で大川小学校の校庭を見に行った。 津波を避けられる '裏山’ は学校の運動場と隣接していた。 運動場から体育館と野外舞台の間の小さな道に沿ってなだらかな登山道を上がればすぐに裏山だ。 紫桃氏は「子供たちが70人余りいたが、急げば10分あれば待避できただろう」と話した。 校庭には子供たちを別の安全な場所に運べる大型通学バスも待機していたのに、どういうわけか使われなかった。 教師たちは子供たちを50分も運動場にいさせて津波が学校を襲う1~2分前にようやく待避を始めた。 それも山ではなく、津波が押し寄せてくる堤防に向かってだった。 午後3時37分、津波が襲い子供たちが犠牲になった。
‘なぜそうなったのだろう’この事故で娘 みずほさん(当時12才)を亡くした高等学校教師 佐藤敏郎氏(51)は去る3年間、そればかりを考えてきた。 彼は「十分に待避できる時間も情報も場所もあったのに、正しい判断を下せなかったとすれば学校の組織自体に相当な問題があった筈」と話した。 父母たちは石巻市‘教育当局’(市教育委員会)を相手に惨事の真相を糾明するよう要求した。
事故から2ヶ月後…調査が始まったが
勇気を出して証言した生存児童たちの証言を
聞いても録音はせずに
メモ記録まで廃棄した
再び調査委を作り1年2か月
それでも責任の所在分析はなされなかった
失望した遺族たちは再び法廷闘争へ
「私たちがここであきらめれば、同じような事故が起きた時
政府は私たちの例を振りかざして責任を回避するだろう」
事故から2ヶ月経った2011年5月、市教育委員会が派遣した奨学官らが事故生存者を相手に調査を始めた。 しかし調査の目的は‘真実糾明’ではなく、教育当局の‘組織保護’であった。只野氏の息子である哲也君(14・事故当時11歳)は惨事当時、かろうじて山に這い上がって助かった生存児童4人の内の1人だ。哲也君は調査で、当時運動場で「山に逃げよう」と主張した子供たちがいたと述べた。 しかし奨学官は生存児童たちの証言を聞いても録音せず、これを書き取ったメモ記録も破棄した。「逃げよう」と言った児童がいたという重要証言を報道資料などにも書かなかった。 只野氏は「子供が勇気を出してやっとの思いで証言した内容を、曲げて無視してしまった教育当局を許すことはできない。 調査は自分たちの責任を回避するための形式的なものだった」と話した。
紆余曲折の末、2012年12月に文部科学省の仲裁の下に‘大川小学校事故検証委員会’が発足した。 しかし1年2ヶ月にわたる調査の末に去る2月に公開された‘最終報告書’にも今回の事件の‘責任所在’に関する分析は含まれなかった。 大川小学校事件を几帳面に報道してきた独立言論人である加藤順子氏は「遺族たちが願ったことは、学校の災難対応にどんな問題があるのかに関する調査だったが、津波工学などを専攻する見当違いの人々が委員会に入って、調査が全く違う方向に進行されてしまった」と話した。
最終報告書を見て失望した遺族たちは、結局法廷闘争を決意した。 遺族たちは去る3月、仙台地方裁判所に石巻市と宮城県を相手に損害賠償を請求する訴訟を起こした。 亡くなった74人の内、23人の遺族が参加した。 遺族たちが要求するのは、子供たちが津波という自然災害ではなく「校内にじっとしていなさい」という学校の誤った指示、すなわち人災によって亡くなったということの確認を受けることだ。 石巻市は「津波は自然災害だったので、これを予測して待避することは不可能だった」と対抗している。
紫桃氏は今でも3年前に亡くなった娘を心に抱いて生きている。 彼は「子供たちは山に逃げたかったのに、教師たちが‘ここにいなさい’と言って亡くなった。 そう考えると哀れでどうしようもない」と話した。 津波で妻と娘を失った只野氏はときおり息子の哲也君と共に家族皆の思い出が詰まった食堂を訪ねる。 彼は「四人の家族が楽しい時間を過ごした思い出の場所に行けば、心がとても痛むが、こうでもしなければ耐えられない」と話した。 佐藤氏も「娘を失った悲しみは克服できるものではない。 毎年新年がきて、クリスマスになり、娘の誕生日が巡ってくる。 悲しみに逆らわずに、悲しければ悲しみ、懐かしければ素直に懐かしがる」と話した。
人生の苦痛の中で彼等を支えているのは、子供たちの死を無駄にしてはならないという切迫感であるように見えた。 紫桃氏は「私たちがここであきらめれば、同じような事件が起きた時に、彼ら(政府)が私たちの例を振りかざして責任を回避するだろう」と話した。 「それだけは絶対に嫌です。 セウォル号の遺族たちも同じでしょう。」紫桃氏が歯をくいしばるように話した。 事故からすでに3年が過ぎたが、大川小学校の遺族たちの心は屈していなかった。
石巻(宮城県)/文・写真 キル・ユンヒョン特派員 charisma@hani.co.kr