原文入力:2011/08/30 20:13(2566字)
チョン・ナムグ記者
小出裕章京大助教
講演や本で「原子力発電所は墓」
日本、事故後に耳を傾ける
科学者は開発がすべてでなく
終わることなく疑う姿勢を持ってこそ
インタビューを要請した時、彼は「京都に来てくれれば会うことはできるが、1時間以上は時間を空けられない」と先に了解を求めた。8月17日、日本大阪府熊取町の京都大学原子炉実験所で彼に会った。彼は「体が10個ぐらいになれればいいのに。1分1秒でも割いて使うしかない」として繰り返しすまないと言った。
小出裕章(63・写真)京都大学原子炉実験所助教は3月の福島第一原子力発電所放射能流出事故以後、日本で最も多忙な人たちの中の1人だ。彼は「来年3月末までは、すでに週末講演の日程がぎっしり埋まっている」と話した。ひとりでも多くの人に彼の講演を聞いてもらうことを願う日本人インターネットユーザーが作った「小出裕章講演会情報」サイトを見ると、彼の最近の講演日程を知ることができる。8月4日東京、5日には福島と仙台、13日には沖縄、20日広島、27日にはまた東京。平日には放射能測定という主業務を遂行して、福島の状況に関して論文を書き、マスコミとのインタビューにも応じる。彼を探す人が多いのは、福島原子力発電所事故に関連して、今、彼が日本で市民に最も信頼されている学者であるためだ。
「当初、私も原子力開発に人生をかけてみようと考えましたよ」
彼が高校生だった1966年、茨城県東海村に東海発電所が稼動を始め、日本でも原子力時代が開かれた。あらゆるマスコミがこの「夢のエネルギー」を称賛した。彼も夢が膨らみ宮城県仙台にある東北大学原子核工学科に入学した。しか
し、原子力を勉強していくにつれ、彼はその虚像に次第に目を開くことになる。
仙台で使う電力を生産するために原子力発電所を作るが、なぜ大きな電力消耗を甘受してまで直線距離で60kmも離れた女川に作るというのか?
原子力発電所は都会人が受け入れることのできない危険を有しているためだということを知ることになった彼は、1970年、女川原発反対運動に参加して「反原発の道」へ歩いていった。大学院を修了後、彼は「原子力研究の場で『反原発』のために戦うことを」決意した。そして1974年、京都大学原子炉実験所で助教として仕事を始めた。放射線計測、原子力安全が彼の専攻だ。
37年の経歴、還暦を迎えた齢だが、彼の地位は今でも「助教」だ。日本の
大学の助教は教授、准教授の下の教授要員だ。韓国の大学の「助教授」と似ている。彼は「自由な研究と私の考えを守るために、助教以上の地位に昇りたくな
かった」として「誰の命令も受けず誰に命令しなくてもいいこの地位が私は好きだ」と話した。
彼は原子力専門家として原子力発電所の危険性
を知らせるために、数え切れない多くの講演をしてきた。「原子力と関連して、私がしなければやる人がいない仕事」を彼は主に行った。1986年、チェルノ
ブイリ原発事故の後、日本に到達した放射能に対して体系的な計測をして、研究報告書を書いたのも彼であった。その年の秋にはオーストリア・ウィーンで開かれ
たチェルノブイリ関連国際会議にも日本研究者を代表して参加した。
「地位、名誉、お金が良いと思えばできませんが、それにぶらさがらないのなら、難しいこともありません」
原子力発電所反対に生涯をかけて歩んできたこの原子力科学者は非常に簡単に答えた。もちろん、続けて「私が大学、それも教員各自の特性を尊重する京大にいたので、(反原発活動を継続することが)可能だっただろう」と認めた。
彼の研究室の壁には田中正造(1841~1913)の白黒写真が掛っていた。明治時代、日本は帝国主義戦争を行いながら武器を作るために栃木県で鉱山開発を拡大した。その過程で深刻な汚染が広がった。農作物が枯れて人が死んでいった。帝国議会議員だった田中は農民側に立って戦い、侮辱罪で投獄された。彼は解
放された後、議員職を辞めて故郷へ帰り、最後まで農民側に立って戦った。
「国家が人民を殺すのは道理に合わないと田中正造は戦ったが、彼の主張は政治の場では生き残ることができなかったんですよ」
同じように小出助教をはじめとする日本の反原発の学者・活動家たちの長い間の戦いも、似た道を歩んできた。その結果が福島原子力発電所事故で現れた。小出が
1991年に出した「放射能汚染の現実を超えて」という本は今年に入り数万部が売れたが、当時は2000~3000部しか売れなかった。他の本も同じだっ
た。日本の大手メディアは今でも小出と同じ「反原発学者」には発言の機会さえ与えない。福島第一原子力発電所の事故の後、彼の判断と予測のとおりに事態が
展開しながらも、一部のメディアが彼にインタビューした程度だ。
彼は「福島第一は原子炉圧力容器はもちろん、格納容器の底にも穴が開いて
おり、核燃料が地下で入り込んでいるだろう」としながら「原子力発電所全体を巨大な墓とするしかない」と話した。もちろん、その核の墓を数万年以上、人類
が安全に管理することができるかというのは、また別の問題だ。彼は「悪夢を見ているようだ」とし「私のように原子力発電所事故を警告してきた人もそうだが、原子力発電所事故はありえないと信じてきた人々は、この現実を信じられるのか?」と問い直した。
それでも1970年代、日本の旧7帝大すべてにあった原子力工学科が今はすべてなったことが示すように、原子力を見る大衆の見解は大きく変わってきた。福島原子力発電所事故後「脱原発」世論は70%に達する。小出は「多くの人々がそれだけ感じ始めたのだろう」と話した。
「疑って、疑って、また疑って。そうした後にも残るのが真実だと考えます」
自分から指導を受けると就職をできなくなるだろうと考えて、指導してくれという学生たちの要請を全部断ってきたという彼は「終わることなしに疑うことに忠実なのが科学であり、科学者の姿勢」と話した。
大阪/文・写真 チョン・ナムグ特派員 jeje@hani.co.kr
原文:https://www.hani.co.kr/arti/international/japan/494086.html 訳 M.S