本文に移動

朝鮮族大移住 100年 韓・中・米・日 4ヶ国 現場報国ルーツ②‘お客さん’の一生

原文入力:2011/11/04 22:11(3989字)
生きてゆくために出稼ぎでバラバラに…朝鮮族がいない朝鮮族の村
アン・スチャン記者




←朝鮮族が集まり暮らした中国、吉林省、柳河(ユハ)県、永豊村、シンバル屯。 路地に沿って立ち並んだ20軒の家ごとに朝鮮族が暮らしていたが、今は韓国などへ全員が出稼ぎのために村を離れた。イ・ジョンア記者 leej@hani.co.kr


広大な中国の人口統計では朝鮮族の移住規模を把握することは難しい。ただ推定は可能だが、中国東北3省(吉林省・遼寧省・黒龍江省)の朝鮮族190万余人の内、50万人余りが韓国、50万人余りが中国沿海・内陸都市、そして10万人余りが日本・米国などに移住したと伝えられている。吉林省で会った朝鮮族はその推定さえ信じなかった。「皆、離れました。バカでない限り皆韓国に行きましたよ。」吉林省、柳河県、永豊村住民キム・ヨンオク(59)氏は「朝鮮族は皆行った」と繰り返した。

 

吉林省、永豊村、小さな村に集まり暮らしていた20世帯中、残ったところは1世帯だけ。それも韓国へ行って強制追放された50代の男性が暮らしている。


中国、吉林省、柳河県、永豊村の朝鮮族の家の庭には真っ赤なユスラウメが咲いていた。真っ赤なユスラウメは雑草の隙間で勝手に育った。人が住んでいる家にはユスラウメの場所がない。永豊村の漢族の家の庭には白いセリの花が咲いていた。漢族は菜園の小さい畝ごとにセリ・小豆・ピーナッツをきめこまかく育てている。 漢族が住んでいる家には生の活気がある。


住民キム・ヨンオク(59)氏は持ち主のいないユスラウメの実を取って「食べてみなさい」と薦めた。空き家のかつての主人は「韓国に行くと言って漢族にお金を借りて逃げた朝鮮族夫婦」とキム氏は話した。住民登録統計を見れば245世帯1254人の朝鮮族が永豊村に暮らしている。その数字には現実感がない。「実際の居住者は20余世帯70人余り程度」と永豊村の村書記チョン・ムンチョル(56)氏が話した。


永豊村には4個の‘屯’(屯は小さな村)がある。その中の一つであるシンバル屯郊外には朝鮮族が集まって暮らしていた村がある。1960年代‘文化革命’の頃、民族固有の習俗は禁止された。漢族と混ざって暮らしたくなかった朝鮮族は小さな村の隈でまた別の小さな村を作った。


40年余りが過ぎた今、小さな路地をまたいで集まっている20世帯の中で誰も暮らしていない空き家は4軒だ。朝鮮族が去った家に漢族が入ってきて暮らしている世帯は15軒だ。たった一戸に朝鮮族が暮らしている。韓国で不法滞留して強制出国させられた50代の男性だ。彼の妻は韓国で家政婦として仕事をしている。文化革命でさえどうにもできなかった朝鮮族の村は‘韓国ブーム’にまきこまれ漢族の村になった。 (グラフィック参照)


貧農の定めで彼らは都市に出て行き日雇い仕事をしたり絶えず韓国行を試みる。 金を稼いできても10人に6,7人は滅びる。


←シンバル屯の住民キム・ヨンオク(59)氏が朝鮮族が去ってしまった路地に立っている。彼の夫と娘も韓国に行っている。


家ごとにあるそれぞれの理由を隣近所に住むキム・ヨンオク氏は知っている。50代の女性は夫が死ぬと他の朝鮮族と再婚し韓国に行った。韓国で2番目の夫がまた死んで、二人の夫の間に産んだ二人の息子も皆韓国で働いている。長男は不法滞留者だ。


隣の家の50代夫婦は韓国へ渡っていった娘の招請を受け金を稼ぎに行った。食堂で仕事をする30代の娘は韓国国籍を得た朝鮮族と結婚して離婚し、また韓国にいる朝鮮族と再婚した。向かい側の家の70代の夫婦は生き別れ中だ。妻は韓国で仕事をし、夫は柳河県の市内にアパートを買い、朝鮮族の学校に通う孫・孫娘を世話している。息子と嫁は韓国に出て行った。


「皆、同じ。皆、金を稼ぐために離れたのだろう。」キム・ヨンオク氏が話した。畑を作った漢族とは違い、朝鮮族は稲を作った。稲作には集団労働が必要だ。 朝鮮族は初めから集まって暮らしていた。家族、農作業、村、民族などが彼らの最高価値であった。改革・開放の80年代と韓国熱風の90年代を経て、朝鮮族は新しい価値に目を開いた。都市に出て行き工場・食堂・建設現場で日雇い労働を始めた。各自が稼いだので集団居住は必要がなかった。 朝鮮族はもう各々バラバラに離れて住む。


「韓国が門戸を開いたことが悪いわけではないだろう。金を稼げることになったので。」キム・ヨンオク氏が話した。「ところで金を稼いでどうするか。大事に貯めておけないのに。」金を稼いだという朝鮮族はいるが、金を貯めた朝鮮族は珍しいとキム氏は話した。「この村で韓国ヘ行った10人中6人が滅びた。家もなく流れ者の境遇だ。家族は四方八方にちりぢり別れたし。」


キム氏の夫と二人の娘も韓国にいる。 59才の夫はソウル郊外の借間で娘・婿とともに過ごしモチ屋で働いている。キム氏も韓国食堂で仕事をしたことがあるが、「その日暮らしで緊張して過ごすのが嫌いで」故郷に帰ってきた。「私たちのおじさんも帰ってきて一緒に栽培すればいいね。」


「多くの人々が家もなく家族も散ったまま流れ者の身分になった。」それでも離れた人々に帰ってこさせる方法は見つからない。


←朝鮮族が離れた家には漢族が入ってきて暮らしている。シンバル屯の漢族家族が庭に出てきて談笑している。


永豊村書記チョン・ムンチョル氏は韓国で仕事をして1998年に故郷に帰ってきた。 翌年から村の書記を引き受けた。1994年、彼は2万5000中国元(約450万ウォン)をかけて韓国に行った。忠北(チュンブク)清原(チョンウォン)の金属工場で旋盤作業をし、その後ソウル、広津区(クァンジング)の皮革工場で原材料管理の仕事を請けた。月110万~140万ウォンを稼いだ。貯めたお金で柳河県の市内に家を買ったが、そこで暮らしてはいない。永豊村で農作業をしている。


「金を稼いでアパートを買っても、それで生活することはできません。」チョン氏は話した。中国には借家生活者は珍しく賃貸所得は望めないからです。5年余りの韓国生活が彼に残したものは「故郷で民族の教育・文化を守らなければならない」という信念だ。「ところが離れた人々を帰ってこさせる方法が見つかりません、」農村に住民登録を置いた中国人は世帯当り3ム(1ムは666㎡)程度の土地を持っている。その土地で出きる穀物を売れば1年に3000中国元(約54万ウォン)を稼げる。貧農の定めを拒否する人々が故郷を離れる。柳河朝鮮族小・中学校運営委員でもあるチョン氏は崩れ行くものを切なく握りしめている。


柳河県でタクシー運転手をしているイ・グァンチョル(仮名・38)氏は、それでも韓国にまた行きたい。彼の一生は韓国を抜きには説明できない。22才だった1994年に韓国に行った。プラスチック鋳型工場、靴下工場、新聞配達支局、建設現場などで仕事をした。 月50万~150万ウォンを稼いだ。京畿道(キョンギド)安山(アンサン)の建設現場で不法滞留者取り締まりに引っかかった。一緒に仕事をしていた妻が先に捕まったが、「自分も連れていけ」と言って取り締まり班の乗合車に自ら乗った。妻だけを中国に送ることはできなかった。


夫婦が一緒に稼いで貯めた6000万ウォンで2004年に中国、丹東(タントン)に衣料品店を出したが、詐欺にあって元手を失った。柳河県の市内に食堂を作ったが夫婦が運営するには手に負えず店をたたんだ。余ったお金でタクシーを買った。月2000~4000中国元(約36万~72万ウォン)を稼ぐ。「開放以後、中国の物価が高くなり月2000中国元が生活費として出て行くが、暮らしが窮屈です。」キム氏が話した。不法滞在の前歴があるキム氏は韓国行ビザを受けようと努めている。「寝ても韓国の夢を見ますね。」


朝鮮族にとって韓国での生活は大金作りと同義語だ。「韓国に何年いましたか?」見合いに出て行った朝鮮族の女が男に初めて尋ねる質問だとキム氏が苦々しく笑って話した。中国に帰ってきても働き口が良くないから、朝鮮族は絶えず韓国行を試みる。


独立活動家の子孫であるパク・ソンソク(67)氏は衰退する朝鮮族の村に残って余生を送っている。彼は‘国共内戦’時、共産党に加担し戦う朝鮮族軍人を見た。 朝鮮戦争の時、丹東の橋を渡って進軍した朝鮮族支援軍を見た。‘大躍進運動’の時、とうもろこしの粉で延命した隣りのおじいさんが飢えて死ぬのを見たし、空腹に勝てずに鴨緑江(アムノッカン)を渡って北朝鮮に入る朝鮮族の家族を見た。‘文化革命’の時、朝鮮人抗日運動家らが粛清されるのを見たし、‘改革・開放’以後に韓国に群がっていった朝鮮族の青壮年たちを見た。


農作業の合間にパク氏は彼が見たことを小説にして出した。「情けない歳月について書いたんだよ。」彼は朝鮮族文学界の最高権威である‘長白山文芸賞’、‘キム・ハクチョル文学賞’等を受けたが、自惚れる気持ちより痛恨な心情がより強い。「韓国のお陰をたくさん受けたが、韓国のために朝鮮族社会が滅びたのも事実だ。」朝鮮族が消えゆく土地で朝鮮族の歴史・文学・言語が生きる場所は貧窮だ。「朝鮮族はその日暮らしになった。」彼らをその日暮らしにしたのは韓国だ。 柳河/アン・スチャン記者 ahn@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/504107.html 訳J.S