原文入力:2011/08/14 22:25(1524字)
ユ・ソンヒ記者
在日慰安婦ソン・シンド ハルモニの叫び
13年ぶりに故国の土を再び踏み‘アジア連帯会議’で被害証言
"地震の時、韓国の方々の多くの助けに直接会って感謝を伝えたい"
←ソン・シンド(89)ハルモニ
"ビビンパ? 私が一番好きな食べ物です。韓国に行ったら必ず食べたいと思っていました。はやく(食堂へ)行きましょう。" お昼のメニューがビビンパという話に、ハルモニは子供のように喜んだ。日本軍慰安婦としての生活と他国での長期にわたる差別などを体験し、韓国人であることを隠すために韓国語さえも忘れなければならなかったが、持って生まれた食の好みだけは絶対忘れることも変わることもなかった。
在日日本軍慰安婦生存者であるソン・シンド(89)ハルモニが1998年以後、13年ぶりに故国の土を踏んだ。去る13日、ソウル、鍾路区、韓国キリスト教100周年記念館で開かれた‘第10次日本軍慰安婦問題解決のためのアジア連帯会議’に参加したソン ハルモニは、その間韓国に行こうという提案を何度も受けたが断ってきたと語った。表面的には「面倒だから」と言ったが、胸の内はそうではなかった。 1993~2003年まで10年にわたり日本政府を相手に提起した‘軍慰安婦賠償訴訟’で結局敗訴したハルモニは自身のくやしさを韓国政府が解いてくれるように願った。しかし韓国政府は中途はんぱであったし、これに対するさびしさが故国に向かうハルモニの足を掴んだ。
だが、今度は違った。「韓国に行こう」という話が出るや準備を始めた。「津波の時、韓国から多くの人が私を心配して助けてくれた。その情がありがたくて直接会って挨拶したかった。」
去る3月、規模9.0の地震と共に津波が襲った時、ハルモニは被害が集中した宮城県に住んでいた。待避しようという人々にハルモニは14年間 家族のようにかわいがってきた愛犬‘マリコ’を任せた。もしも待避行列から遅れをとればマリコまで危険になるという思いからだった。一人で高地の建物で一日を持ちこたえたハルモニは翌日 近隣の工事現場作業者の背中に背負われたり、歩いたりもして6kmを移動し仙台待避所に到着した。救助された後、ハルモニは韓国と日本で募金し渡したお金で東京に新しいくつろぎの場所を得た。
「津波は恐ろしくなかったか」と尋ねると、ソン ハルモニは「弾丸が飛び交う戦争でも生き残ったのに丈夫な命が虚しく死ぬわけがないと思った」と淡々と話した。
ソン ハルモニは‘人生’に対する愛着が強かった。16才だった1938年、中国無昌連れて行かれ7年間にわたり慰安婦生活を強要された時も、慰安婦生活中に産んだ子供を他人の手に任せなければならなかった時も、50年を超えて日本で指差され差別を受けた時も、ハルモニは‘生き残らなければならない’という思いだけだったと語った。「日本のやつらから‘きちんとした謝罪’を受けるまでは死ぬこともできない。私の気持ちだけは日本にも、死にも絶対負けない。」
ハルモニはこの日の行事で台湾・日本・タイ・フィリピンなど9ヶ国70人余りの前で軍慰安婦生活について証言した。行事を終えて別れる時、ハルモニは記者の手をぎゅっと握った。そしてすべて忘れたという‘韓国語’で挨拶した。「さようなら。あなたも元気でいてね。」ユ・ソンヒ記者 duck@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/491746.html 訳J.S