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原発 “本当の危険”は別にある

原文入力:2011.03.18(2378字)

イ・ミョンジェ

韓国社会で日常的に使われる言葉のうちで一番誤用されている言葉、甚だしい場合には危険でさえあり得る用語の一つが“広報”という言葉だ。 ある政策や事案についてその実体を正確に知らせ大衆の理解を求めるというのがこの言葉の本来の意味だろうが、韓国で広報というのは多くの場合、実情を隠し糊塗してわい曲するのに使われる。 そして広報という言葉をこのような現実的な意味で解釈する際に絶対に扱ってはならない分野の一つが、原子力に関するものだ。

←<写真>日本福島県第1原発1号機で12日に起きた爆発の様子を日本の地上波民営テレビNTVが撮影した。

原子力文化財団という機関がある。 名前を“文化”といっているが、この機関の使命は原子力、原子力発電に関する広報だ。 原発というものは広報ではない正確な説明と論議が必要だと考える私としては、国民の生命と安全に責任のある政府が原発に関する“広報”機関を税金で運営していることがまさに、韓国社会の原発に対する誤った理解の現住所を示していると見る。

『危険社会』という著書で現代社会の性格を“危険社会”と診断したウルリヒ・ペクは、最大危険因子を放射能と見る。 ペクがそう考えるようになった契機はほかでもない旧ソ連のチェルノブイリ原発事故であった。 そしてこのチェルノブイリ事態に対して環境分野の権威者 J.R. メンニル教授は韓国でも翻訳された『20世紀環境の歴史』で「チェルノブイリ事態は20世紀の人類が環境に残した最も鮮明な烙印であり、歴史上一つの世代が次の世代に渡した最も時効の長い抵当権である」と規定した。 これは全世界の人々に向けた指摘だったが、韓国人が耳を澄ましてよく聞かなければならない部分が次に続く。「チェルノブイリ事態以後、非ヨーロッパ国家では日本と韓国と台湾だけがこの事態に鈍感なまま相変らず原子力発電に関心を持っている」という指摘だ。 今の日本の事態は彼の指摘と警告を切迫した現実をもって確認させてくれる。

しかし私は本当の危険は放射能でも原発でもないと言いたい。 安全な原発というのはありえないが、たとえいくら安全な原発をつくることができても、結局安全はそれを誰がどのように管理するかの問題だ。 その点で日本の原発当局が見せている偽りと隠蔽のリレーは、原発を巡る多くの公式説明と発表がどれほど不正確なものであるかを、そして原発の運営がどれほどいい加減なものであったかを示している。

韓国が果たして日本より1センチメートルでもましだということができるだろうか。 日本の原発事態により韓国が影響を受ける可能性について、韓国の放送には専門家が出てきては「いたずらに心配することはありません。 私たち専門家が保証します。韓国の原発は安全です」と超然とした表情で話している。 こうした風景は韓国社会で特に顕著な専門家主義、特に原発のような科学技術分野で一層の猛威を振るっている専門家主義の実情を見せてくれる。 「私たちが発言するから非専門家は黙っていなさい」と言い張っているわけだ。
しかし専門家は賢いが、いや賢いがゆえに無知な人たちだという「無知な専門家」なる言葉がある。 自分の専門分野に閉じ込められてその垣根の外を見ることができない無知をさらけ出しているというわけだ。 今回原発について“無知な”国民が知った新しい事実、例えば電力が切れれば原発の冷却装置は稼動しないといった あまりにも基本的な事実を一つか二つ知るだけで持たざるを得ない不安と恐怖に対し、原発専門家たちは一体どんな“専門的”且つ“責任ある”説明を提示するのか。

専門家主義の落とし穴と重なって一層危険を増大させるのは、真実で合理的な政府の不在という問題だ。 たとえば私達は日本の原発が崩壊しているちょうどその時、イ・ミョンバク大統領がアラブ首長国連邦の原発起工式に参加した写真を目にすることになったわけだが、その写真は私が最近見たものの中で最もグロテスクで、開いた口がふさがらない、道化芝居的な場面だった。 超現実的といわなければならないような場面だった。 そして韓国社会の真の危険因子がどこにあるかを見せてくれるものだった。

それは、しばらく安全なように思われていた民主主義がこの政権になって以来突然危険に陥ったように、また狂牛病問題やその他多くの場合に目撃したように多くの安全地帯が危険地帯へと追い込まれた状況のように、原発のような危険因子を一層危険に陥れているかも知れないという恐怖をかもし出した。

憲法には手続き的妥当性という条項がある。 手続きは透明性を備え公開して説明し議論して、当事者を参加させよということだ。 専門家主義の落とし穴を避けよとの趣旨も入っている。 ここで手続き的妥当性とは単に手続きだけの問題でなく手続きの土台となる実体の妥当性まで含むもの、というのが憲法解釈の判例だ。 すなわち広報や議論の内容が誤っている時は、それに基づく手続きは初めから誤ったものだということだ。 スタートが誤っている政権から正しい政策が出て来得ないのと同じ道理だ。

韓国の原発および原発の安全性について、政府と当局は“広報”を止めなさい。 代わりに本当の広報をすること。 その過程と手続きに専門家だけでなく非専門家たちも参加させること。 原発に対して無知かも知れないけれども放射能が露出すれば“平等に”その被害をこうむる“無知な非専門家”も、原発の建設と運営決定過程に参加させること。 それが、放射能よりさらに大きな“危険”を避ける道だ。

原文: http://hook.hani.co.kr/archives/23935 訳A.K