本文に移動

疑問死した息子の遺骨を抱いて23年 胸で呼んだ "キョンシク…キョンシク"

原文入力:2010-09-07午後07:36:35(4018字)
78才 老母、労働運動をして亡くなった息子‘涙の葬式’

キム・ポンギュ記者

←労組活動をして疑問死した息子の真実を明らかにしようと23年間、世の中と戦ってきたキム・ウルソン(78)氏が7日午後、京畿道、南揚州市、和道邑、牡丹公園追慕館前で行われた息子の入棺式を見守り涙を流している。南揚州/キム・ポンギュ記者 bong9@hani.co.kr

疑問死労働者チョン・ギョンシク氏‘23年ぶりに葬式’
青い刀を持ち魚の腹を割く。はらわたを引き出し異様な感じに頭を上げれば、まないたの向こう側に息子が立っている。大宇重工業の作業服姿で首には会社の出入証もかけていた。"キョンシク…." キム・ウルソン(78)氏が刃物を下ろしゆらゆらと息子に近付く。息子は後に退く。ぬれた目だ。"お母さん、私がどうしてこうなったの?" かすかな声が聞こえたかと思うと息子の姿は消える。

キム氏が去る23年間、数えきれない程に見てきた夢だ。息子をつかまえようともがくと、障害のある夫が這ってきて水を汲んできた。若い時期に精米所で仕事をしていて米俵につぶされる事故に遭った後、夫は立ち上がれなくなった。暗い部屋にぼんやりと座っていて、夜が明ければ木の容器を頭に載せて家を出た。慶南、馬山市、鎭東里の家から咸安郡の町まで魚を売りに行った。魚を手入れして夢にみた息子を思えばいつも目じりが赤かった。

‘民主労組を作る’と言って28才の息子が失踪し遺骨で発見されて23年ぶりに、母親のキム氏は8日に息子の葬儀を行う。23年前には息子の話がどんな意味かも分からなかったお母さんは、その長い歳月を生きてきて、今は「息子の葬儀は必ず民主労働者葬で行う」と話す。お母さんの思い通り、去る6日から3日間‘労働解放烈士チョン・ギョンシク同志 全国民主労働者葬’が行われる。7日昼、京畿道、磨石、牡丹公園墓地では入棺式が行われた。ついに息子の遺骨が収拾されて棺に入る様子を見て、お母さんは長い泣き声をあげた。「子供を殺した犯人が近くにいるのに何もできずに23年だ。もう見送らないと。私が死ぬ前に葬儀をしないと。」

息子は1987年6月8日の月曜日に消えた。寄宿舎に住み工場に通った息子は、週末だけ家に帰ってきた。2男1女の2番目だが精神疾患のある兄の代わりに長男の役を果たした。失踪前日にも家に戻ってきた。お母さんは息子の好きな豚のプルコギをしようと普段より早く魚の露店をたたみ帰ってきた。だが、息子は市場に行き母親に会って寄宿舎に帰るつもりで家を出た後だった。行き違いになったことが残念でお母さんは新聞にぐるぐるまきに包まれた豚肉をしばらく見つめていた。

何日か後、会社の同僚から「キョンシクが数日間出てこない」という電話を受けた。会社に訪ねて行った。大宇重工業昌原工場前で「私の息子を出しなさい」と泣き叫んだ。返事はなかった。お母さんは大統領、内務長官、検察総長、昌原警察署長など、可能なすべての所に陳情書と嘆願書を入れた。

民主化運動認定…街頭のオモニ "私が死ぬ前に埋めなくちゃ"

お母さんは街頭に出た。87年7月から野火のように起きた労働者大闘争の時、お母さんは息子の写真を持って街をさまよった。労働者たちが集まる所ごとに走って行き「息子を探して欲しい」と訴えた。ソウルの不慣れな路上で夜を明かし馬山に戻れば全身がしびれた。それでも、町内で「アカのまねをして病気で寝ついた」とうわさが立つかと思い、病気になることもできなかった。決まって木の容器を頭に載せて魚を売りにでかけた。

9ヶ月ぶりの1988年3月2日、息子が見つかった。大宇重工業が見渡せる慶南、昌原の仏母山に山火事が起き鎮火作業中に山火事監視員が火炎の中で遺骸を発見した。栗の木の下、遺骸が発見された場所には息子の会社出入証と焼酎瓶、首を括る時に使ったと推定される紐などがあった。その年の8月、検察はチョン氏が自殺したと発表した。

労働運動 息子 失踪 9ヶ月後
山火事現場で遺骸で発見
オモニ、真実を明らかにするため街頭へ

お母さんは死の真相を明らかにするため、あちこち飛び回った。息子の死を暴くにつれて息子が生きた人生に近づいていった。

息子は84年5月、大宇重工業昌原2工場特殊生産部に入社した。当時、大宇重工業は軍に装甲車を納品する1級防衛産業関連企業として、保安司・警察情報課・安全企画部要員が常に出入りしていた。85年、息子はドリルを交換しようとして右腕をドリルに巻き込まれる事故に遭った。鉄芯を打ち込みかろうじて身体障害者を免れた。退院後、息子の目つきが変わっていった。会社に復帰したが会社では「本人の不注意で事故がおきた」とし、手で機械を削る作業場に移れと言った。右手の指がよく握れなかった息子は「会社のために仕事をして事故に遭ったのに、今度は会社を辞めろと言う」として怒った。

←故チョン・ギョンシク氏の遺影を持った従弟チョン・ギョンヨル氏とソル・フン前議員(右側2番目)らが7日午後、京畿 南揚州市、和道邑、牡丹公園追慕館前でチョン氏の入棺式を終えた後、運柩をしている。母親キム・ウルソン(左端)氏が泣きながらその後に従っている。南揚州/キム・ポンギュ記者 bong9@hani.co.kr

その後息子は‘民主労組’の話をたくさんするようになった。労組が労働者の立場を代弁できないと言った。お母さんは「腕をケガしてイライラするのでそうなんだろう」と思い、息子をなだめた。息子は以後、民主労組を夢見る人々と共に労組支部長選挙運動をした。

労組支部長選挙は‘民主派’に有利だったが、代議員投票結果は6対5で会社側を代弁する候補が勝った。息子は会社側候補に票を入れた人々が会社から懐柔されたと判断し、それらの人々を訪ねて行き問い詰めた。ある代議員と小競合いが起き、息子は暴行罪で告訴された。

失踪当日、息子は「和解のために代議員に会いに行く」として外出願いを出した。そして二度とは戻ってこられなかった。お母さんは会社と代議員の家に数回訪ねて行き絶叫したが、反対に会社はお母さんを暴力行為などの疑惑で検察に告訴した。88年2月にキム・ソクチュァ神父を委員長とする‘大宇重工業チョン・ギョンシク失踪事件真相究明対策委員会’が構成された。野党の平民党も調査委員会を構成し昌原工場を訪問した。だが、進展はなかった。89年7月から3ヶ月間、馬山刑務所に収監されたお母さんは懲役1年6月,執行猶予2年を宣告され釈放された。

釈放された以後、お母さんはラーメン箱に入れておいた息子の遺骨を見ながら食事を断った。全国民族民主遺家族協議会のチョン・テイル氏の母親、パク・ジョンチョル氏の父親が「そうしていては死んでしまう」として、遺骨を持って行き磨石の牡丹公園納骨堂に臨時に保管した。

疑問死・真実委“他殺の痕跡”にも関わらず
真相究明 不能決定‘無念’
先月 民主化運動 認定

←チョン・ギョンシク事件日誌

97年、平民党時期に会ったことのある金大中候補が大統領に当選したという消息を聞いた時、お母さんは喜びにからだを震わせた。「総裁様、後日、大統領なられたらきっと私たちの息子の真相究明をして下さい」という話に「必ず真相究明して差し上げる」という答を聞いていたからだ。もうすぐ大統領が真相を糾明することと信じた。その間、冷淡だった大宇重工業から人を送ってきた。1億5千万ウォンを合意金として提示した。

「子供を売り飛ばすことはできない」としてお母さんは叱り飛ばした。99年、疑問死真相究明のための特別法が制定されるという消息を聞き、422日間ソウルで支持座り込みをした。断髪もした。2000年、いよいよ大統領所属の疑問死真相究明委員会が発足した。だが、2002年の1期疑問死委員会も、2004年2期疑問死委員会も‘真相究明不能’決定を下した。

当時、委員会は息子が国民の自由と権利を伸張させる民主化運動をしたと確認した。また、遺骸発見現場で採取した土壌から動物性蛋白質が腐敗する時に生成される亜硝酸塩・アンモニウム塩が検出されなかった点、首を括ったと推定される紐から血痕が発見されなかった点を挙げ、他所で死んだ後に移された可能性を提示した。だが、それだけだった。誰が、なぜ殺したのか、真実は糾明されなかった。‘真実・和解のための過去史整理委員会’でも同じ結果を出した。

先月23日、民主化運動補償審議委員会は‘チョン・ギョンシクを民主化運動関連者と認定する’という決定を出した。真相を糾明し犯人を指定する訳には行かないが、民主化運動過程で死亡したということを認めた結果だ。物証はないが他殺されたという情況が参酌された。だが、これさえも‘民主化運動寄与度80%’という但し書きがついた。お母さんは「今になって80%とか、このような形で話すことに何の意味があるのか」として涙声で話した。補償金は寄与度比率に応じて支給される。

磨石、牡丹公園納骨堂の最上層である4階に上がると、木箱一つがぽつんとある。箱を開くとすぐに右腕に鉄芯が打ち込まれた息子の遺骨が出てきた。「もう私たちの息子、見送らないと….」お母さんが泣いた。息子は8日、お母さんとともに故郷の馬山鎭東に帰り、慶南梁山の鼎足山(ソッパルサン)烈士墓地に埋められる予定だ。

南揚州/イム・ジソン記者 sun21@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/438684.html 訳J.S