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韓国済州4・3事件から78年…「父の骨、一片だけでも幸せ」

登録:2026-04-01 03:35 修正:2026-04-01 09:04
[本土へ連行された4・3の犠牲者を探して] 
受刑者とされ、行方不明になっていた父親を見つけた 
イム・ジノクさんとヤン・ゲチュンさん
済州4・3事件で大邱刑務所へ連行され、後に行方不明となっていた父親を78年後にようやく見つけたイム・ジノクさんが3月25日、済州市上貴里の路上で笑顔を見せている=ソ・ボミ記者//ハンギョレ新聞社

 「結局、母は失敗したんだ。遠くから聞こえるかのように、インソンの声が小さくなる。骨は見つからなかった、ただの一片も」(ハン・ガン『別れを告げない』 原文より)

 慶尚北道慶山市坪山洞(キョンサンシ・ピョンサンドン)のコバルト鉱山へ連行された兄に、ついに会えなかった小説の中のインソンの母、カン・ジョンシムとは違った。その深く湿った坑道に閉じ込められていた父親を、イム・ジノクさん(79)は見つけ出した。1歳の一人娘を残して本土の刑務所(矯導所)へ連行された20歳の父、イム・テフンさんは、娘の胸に抱かれて78年ぶりに故郷へ帰ってきた。コバルト鉱山で虐殺された済州4・3事件の犠牲者が初めて帰ってきた今年2月3日、済州では3日間降り続いていた雪が止んだ。

 25日に済州市涯月邑上貴里(チェジュシ・エウォルウプ・サングィリ)で再会したイムさんは、50日前に比べて穏やかに見えた。「ようやく父を温かい所に迎えられたので安心した」と言ってかすかに微笑んだ。「生きていたらいつの間にかここまで生きた。いま思い出しても身の毛がよだつ歳月」だった。

 ジノクさんが生まれた次の年の1948年の10月17日、済州地域には「海岸から5キロ以上離れた地帯を通行したら射殺する」という布告令が下された。7年7カ月にわたって続いた「済州4・3期」で最も残忍だった軍と警察による鎮圧作戦を告げるシグナルだった。1947年3月1日の警察による発砲とそれに続く弾圧、1948年4月3日の武装蜂起に端を発した4・3は、島を焦土化した虐殺、討伐隊と武装勢力の衝突の過程で、2万5千人から3万人の命を奪った。

2月3日、済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園平和教育センターで、イム・ジノクさん(左)が、前日に世宗市で火葬された父親の骨箱に名札を付けている。父親のイム・テフンさんはこの日、78年ぶりに名前を取り戻した=ソ・ボミ記者//ハンギョレ新聞社

 中山間地の涯月邑召吉里(ソギルリ)も焼失した。生きるために家族で避難した海岸の村、可文洞(カムンドン)はもうひとつの墓場だった。1948年11月に「薪割りに来い」と警察に命じられて渋々出向いた父親のテフンさんは、二度と戻ってこなかった。農業を営んでいたテフンさんは、翌月の違法な軍法会議で内乱罪を着せられ、懲役15年を言い渡された。その直後、木浦(モッポ)を経て大邱(テグ)刑務所に収監された。当時の済州には刑務所がなかったため、実刑を言い渡された者は罪名や刑期すら分からずに全国の刑務所へ散らばった。

 父親を失ったその日、母親も失った。兄の足取りを一生追い続けたカン・ジョンシムと同様、母親はジノクさんを祖母に預けたまま「10年間、せめて夫の消息を聞くために本土を、どこかを必死になって」さまよった。やがて大邱刑務所で「具合が悪そうな」父親と対面したが、それが最後だった。

 婚姻届を出す前だったため法的に未婚だった母の戸籍に入れなかったジノクさんは、テフンさんの次兄の娘となった。しかしその父親はもちろん、テフンさんの長兄も、3人兄弟全員が虐殺された。いつも孤独だった娘は、10歳を過ぎてようやく母親と暮らしはじめたが、母の娘として生きることもできなかった。法的には娘ではないため、母親の死亡届も自分の手では出せなかった。

真実・和解のための過去事整理委員会が2008年に慶尚北道慶山市坪山洞のコバルト鉱山跡で、朝鮮戦争時に虐殺された民間人の遺骨を発掘している=済州道提供//ハンギョレ新聞社

 水の中にいるのか。石の中にいるのか。顔も知らない父のことを一生思っていたジノクさんは、母に代わって立ち上がった。大邱刑務所で行方不明となった他の犠牲者の遺族と共に毎年、嶺南(ヨンナム=慶尚道)地域の民間人虐殺の現場をめぐった。コバルト鉱山にも2度も入り、「ここにいるなら私と一緒に帰ろう」と言って父を呼んだが、実際にそこにいるとは夢にも思わなかった。

 奇跡のようなニュースは昨年10月に届いた。「お父さんを見つけたかもしれない。家族の遺伝情報がもっと必要だ」という連絡を受け、5人が血液を採取した。実は、テフンさんの遺骨は十数年前に水平坑道の外へ出されており、名が呼ばれるのを待っていたのだ。

 今年2月2日、白いチョゴリ、靴、仏教式のあの世の銭をカバンにつめた娘は、吹雪の中を世宗市(セジョンシ)の納骨堂「追悼の家」に安置されていた父に会いに行った。「膝の骨と、どこか分からない細い骨」の2つのかけらを火葬し、胸に抱いた。「これまでの人生、国も憎くて法も憎かったけど、父を諦めずに探し出してくれたすべての人に感謝する」とジノクさんは語る。

大田市東区のコルリョンコルで犠牲となった父親を探し出したヤン・ゲチュンさんが3月27日、済州市三陽洞の自宅そばで父親の写真を見つめている。父の顔を覚えていないイムさんは、記者が「お父さんに似ている」と言うと喜んだ=ソ・ボミ記者//ハンギョレ新聞社

 国家暴力で生まれる前に父親と離れ離れになり、母親と2人きりで苦難の人生を歩んできたヤン・ゲチュンさん(78)も、むしろ国に「感謝している」と語った。ヤンさんもイムさんと同じ日に世宗市で父親の遺骨を火葬し、済州へ帰ってきた。「生まれてこのかた見たことのない父の顔をせめて見られるかと思ったが、あったのはどこか分からない骨の塊だけ。それでも幸せだ」と言いながら、80歳を目前に控えたヤンさんは子どものように笑った。

 ゲチュンさんの父、ヤン・ダルヒョさんは、「この世で最も長い墓」と呼ばれる大田市東区朗月洞(テジョンシ・トング・ナンウォルトン)のコルリョンコルから帰ってきた。1948年6月、26歳のダルヒョさんは妊娠中の妻を残して済州邑道連里(トリョンニ)から連行され、集団収容所となっていた埠頭前のアルコール工場に収容された。

 最期を予期したかのように、ダルヒョさんは「生まれた息子の顔を一度見てみたい」と妻に頼んだ。母親の背中におぶわれたムルエギ(済州語で乳飲み子)は、ダルヒョさんとの一度の対面が永遠の別れとなった。「船で本土へ行く途中で海に落ちて死んだ」と考えた母親は、十数年もの間、シンバン(シャーマン)を連れて海へ行き、クッ(シャーマニズムの儀式)を執り行った。

 しかし、海ではなく山だった。金大中(キム・デジュン)政権時代の1999年、新政治国民会議のチュ・ミエ議員が政府記録保存所(現:国家記録院)で発見した4・3当時の「受刑者名簿」が真実を明らかにしたのだ。国防警備法違反で懲役7年の判決を受けたダルヒョさんは、大田刑務所の受刑者として記録されていた。

2021年9月に大田市東区朗月洞のコルリョンコルの虐殺現場から発掘された遺骨=チェ・イェリン記者//ハンギョレ新聞社

 ゲチュンさんは、1950年の朝鮮戦争勃発直後に「不純分子処理」命令でコルリョンコルで軍と警察に射殺された民間人の中に父親がいるのではないかと推測した。当時遺体はなかったが、2005年に済州4・3事件特別法に則って犠牲者に認定されたダルヒョさんは、2022年の再審で無罪判決を勝ち取った。これまでに軍法会議の受刑者では2205人、民間裁判の受刑者では554人が、再審で長年の冤罪を晴らした。

 ゲチュンさんは、今や粉になった父の骨の一片を拾い、故郷へ持ち帰った。「このような幸運には(行方不明になった受刑者の)1%も恵まれていない」ということはゲチュンさんも知っている。「自分が生きている間に本土に行って父を取り戻して帰って来られたのは本当にうれしいのですが、他の遺族のことを考えると胸が痛みます。彼らの恨(ハン)も解けるよう願っています」

ソ・ボミ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/1251657.html韓国語原文入力:2026-03-30 05:00
訳D.K

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