韓国の政界が時ならぬ「戒厳シナリオ」攻防で熱くなっている。はじまりは、最大野党「共に民主党」のイ・ジェミョン代表が1日の与野党代表会談の冒頭で言及した「戒厳準備説」だった。イ代表のこの発言が、大統領室と与党から「でっちあげたデマ」「国紀を乱すもの」だと攻撃され、それに対し民主党指導部と同党所属の国防委員が一斉にイ代表を援護射撃したことで、衝突が激化した。
いま広がっている戒厳準備説の起源を遡ると、尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権が2022年11月に立法予告した大統領警護法施行令改正案に行きつく。改正案には、キム・ヨンヒョン警護処長(現国防部長官候補)の率いる大統領警護処が警護業務を遂行する軍と警察を指揮監督できるようにする内容が含まれていた。改正が実現すると、警護処長は700人あまりの警護処要員と1300人の警察官、1千人の軍兵力の計3千人あまりを自らの指揮権の下に率いることになる。
大統領室が警護処の権限強化を推進した際に掲げた大義名分は、側面と背後が山に囲まれた青瓦台(旧大統領府)とは異なり、大統領室が新たに設置された龍山(ヨンサン)の国防部庁舎は四方が開けているため、警護に必要な人材や装備の拡充は不可避だというものだった。しかし維新時代の1976年から4年間だけ存在した警護処の他機関に対する指揮・監督権の復活の試みは、野党支持層にとっては、高まった反政府世論を意識した大統領室が政権が危機に陥った際に戒厳のような非常令を宣布して市民の反発を制圧するための布石だと受け止められた。施行令改正案は物議を醸した末に保留となったが、昨年5月に「指揮・監督」の代わりに「関係機関の長と協議」するとの文言を入れて国務会議を通過した。
しばらく静かだった戒厳準備説が改めて騒がれはじめたのは、警護処の権限を拡大した当事者であるキム・ヨンヒョン警護処長が先月12日に国防部長官候補に指名されてからだ。民主党が何よりも注目したのは、キム候補が国防部長官となれば、「沖岩派」と呼ばれる尹大統領の沖岩高校の先輩や後輩たちが、軍政・軍令権はもちろん、実兵力の動員と統制に必須となる情報系統の要職を掌握することになることだった。実際にキム候補は尹大統領の沖岩高校の1年先輩だ。情報機関である国軍防諜司令部の司令官に任命されたヨ・インヒョン中将も沖岩高校出身だ。防諜司令部は朴槿恵(パク・クネ)政権時代に戒厳令検討文書を作成した国軍機務司令部の後身で、戒厳が宣布されれば主要事件の捜査の指揮や情報・捜査機関の調整・統制を担う合同捜査本部も防諜司令部内に設置される。それだけではない。北朝鮮に関する特殊情報収集を担う核となる機関である777司令部の長であるパク・チョンソン司令官、現行の戒厳法では国防部長官とともに大統領に戒厳発令を建議できるイ・サンミン行政安全部長官も沖岩高校出身だ。
だが、ここに列挙した事実は、軍の最近の状況が尋常でないことを示す様々な事柄の一部に過ぎず、戒厳準備説を後押しするほどの「物証」とはなり得ない、というのが軍と政界で大勢を占める意見だ。民主党の雰囲気もそれほど違いはない。ハンギョレが取材した民主党の前現職の国防委員たちは、「戒厳(実務)便覧をアップデートするために通常の演習を行うことは可能だが、朴槿恵政権時代の2017年の『機務司令部文書』水準の戒厳準備は現実的に不可能だ」と口をそろえた。
にもかかわらず民主党指導部が連日戒厳を口にするのは、「政治的予防注射」の性格が強いと考えられる。イ代表に近い民主党の政務職党役員は3日、ハンギョレに「一種の警告だ。国民たちがこのような可能性を認知していればこそ、万が一の状況に備えることができると考えている」と伝えた。民主党は、具体的な戒厳準備までには至っていないものの、軍内部では「大統領が弾劾される状況などの政治的急変事態に備えなければならないのではないか」とささやかれていると把握している。
民主党発の戒厳シナリオを与党は「怪談政治」、「扇動政治」と非難し、反撃の素材としている。与党「国民の力」のチュ・ギョンホ院内代表はこの日の院内対策会議で、「(戒厳準備説は)単なる想像にもとづいた怪談扇動に過ぎない」としつつ、「民主党がここにこだわるは、イ・ジェミョン代表の司法リスクを避けるとともに、大統領弾劾政局を造成するため」だと述べた。