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「想像をはるかに超える民間人虐殺」…朝鮮戦争中、全羅南道で何が起こったのか

登録:2023-11-24 12:11 修正:2023-12-11 10:03
真実和解委、光州で討論会 
23日、真実和解委発足3周年を記念し光州で開かれた「全羅南道地域の軍・警察および敵対勢力による犠牲事件に関する討論会」で、参加者たちが討論している=真実和解委提供//ハンギョレ新聞社

 「想像をはるかに超える被害、出口のない恐怖」

 全南大学社会学科のチェ・ジョンギ教授は、朝鮮戦争前後に全羅南道霊光(ヨングァン)地域で起きた民間人虐殺について、このように表現した。朝鮮戦争前後の時期、霊光地域では他の郡より圧倒的に多い4291人の民間人が死亡した。1948年の麗水・順天(ヨス・スンチョン)事件で蜂起を起こした国軍第14連隊の一部が、霊光地域内の仏甲山(ブルガプサン)や君遊山(クンユサン)、九岫山(クスサン)、太清山(テチョンサン)などで国軍討伐隊と対峙する局面を成し、加害の主体が警察と地方左翼で入れ変わる状況が繰り返された。朝鮮戦争勃発後は奪還するまで時間がかかり、恐怖と報復、事前攻撃などの感情を持った武装した群衆によって虐殺の悪循環が深まった。

 真実・和解のための過去事整理委員会(真実和解委)は23日午後2時、光州市西区(クァンジュシ・ソグ)のラマダプラザホテルで「全羅南道地域の軍・警察および敵対勢力による犠牲事件に関する討論会」を開いた。第2期真実和解委の発足3周年を記念して開かれた今回の討論会は、朝鮮戦争前後の時期に全羅南道地域で発生した軍・警察および敵対勢力による犠牲事件の真実究明の成果を共有し、犠牲者の名誉回復および被害克服のために今後の課題を示す場となった。

 現在、真実和解委に申請された朝鮮戦争前後に起きた民間人犠牲事件計1万3982件のうち、光州・全羅南道地域の犠牲事件の数は5874件(麗水・順天事件、刑務所事件を除く)で、申請された事件全体の42.3%に上る。霊光が属する光州と全羅南道地域は、朝鮮戦争前後で最大の民間人犠牲事件の被害地域だ。

23日、真実和解委発足3周年を記念し光州で開かれた「全羅南道地域の軍・警察および敵対勢力による犠牲事件に関する討論会」で、参加者が質問している=真実和解委提供//ハンギョレ新聞社

 この日の討論会にはチェ・ジョンギ教授をはじめ、キム・ウンギ真実和解委員、パク・チャンスン漢陽大学名誉教授が発題者として参加した。発題報告後には漢陽大学比較歴史文化研究所のユン・ヘドン教授、KBS木浦放送局のキム・グァンジン記者、新安(シナン)郡庁のイ・ジェグン学芸研究士、真実和解委員会のパク・ミギョン調査第2課長が討論者として参加した。

 「朝鮮戦争前後に起きた全羅南道地域の民間人犠牲事件ー真実究明の成果と課題」をテーマに最初に発題したキム・ウンギ委員は、「朝鮮戦争当時、全国各地で民間人が軍・警察によって適法な手続きなしに犠牲になったという主張が事実であることが明らかになり、真実究明を土台に政府の謝罪が続いた」とし、「事件地域を中心に慰霊碑、慰霊墓域が建設されるなど、遺族の無念を解消し、地域社会内の和解措置が履行されるのに寄与した」と成果を挙げた。

 キム委員はまた、第2期真実和解委の課題として、第1期に比べ申請件数は80%増えたが調査期間は1年短縮された第2期委員会の調査期間の延長と、賠償・補償法制定など被害者の名誉回復と被害救済、過去事財団の設立などを提示した。

23日、真実和解委発足3周年を記念し光州で開かれた「全羅南道地域の軍・警察および敵対勢力による犠牲事件に関する討論会」の開始に先立ち、参加者が記念撮影をしている=真実和解委提供//ハンギョレ新聞社

 2番目の発表を行ったチェ・ジョンギ教授は、「朝鮮戦争前後に起きた霊光地域の民間人虐殺」をテーマに、大きな被害が発生した全羅南道霊光地域の「犠牲者統計」と「加害者を基準にした地域別被害事例」、「1945~1953年時代の霊光地域の政治社会学」、「朝鮮戦争期の霊光地域の民間人虐殺事件」について発表した。

 チェ・ジョンギ教授は発表資料で、全羅南道霊光郡で最も被害が大きい地域として白岫面(ペクスミョン)と塩山面(ヨムサンミョン)の事例を挙げた。海岸沿いに位置する白岫面の九岫山の峰であるカッポンはパルチザンの集結地であり、軍・警察による奪還が7カ月ほど遅れたことで、1950年10~11月に発生した左翼による犠牲事件が全体の犠牲事件の80%を占め、また仏甲山と九岫山をつなぐ通路だった塩山面では、1950年9月28日のソウル奪還以後、被害者の約80%が無差別虐殺の被害を受けたと明らかにした。

 3番目の発表者である漢陽大学のパク・チャンスン名誉教授は、「朝鮮戦争前後に起きた全羅南道莞島(ワンド)地域の民間人犠牲事件」をテーマに、「解放後から1946年までの莞島郡の政治・社会的動向」、「1947年から1949年までの莞島警察の左翼掃討作戦」、「朝鮮戦争勃発後の莞島郡での民間人虐殺」などについて発表した。

 パク・チャンスン教授は、特に莞島郡で犠牲者が多かった所安面(ソアンミョン)で犠牲事件が多数発生した原因を考察し、「二つの家の些細な対立が植民地解放後に左右の対立につながり、左派の一人の青年が麗水・順天事件で死亡した事件が右翼に対する報復虐殺につながった」とし、「これがさらに、警察による奪還後に反逆者処罰へとつながる悲劇として現れた」と明らかにした。

 また、2013年5月「所安抗日運動記念館の隣の空き地に建てられた『所安面犠牲者追悼碑』には、村ごとに犠牲になった人たちの名前が左右を問わず全員刻まれ、追悼碑の除幕式の際に莞島警察署長は犠牲者に謝った」として「和解と癒やしが始まった」と評価した。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1117596.html韓国語原文入力:2023-11-23 17:09
訳C.M

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