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「私より若い遺影の中の父…戒厳軍の銃弾でこじれた人生、今は理解」

登録:2020-05-18 01:23 修正:2020-05-18 08:41
17日午前、5・18民衆抗争40周年追悼祭、厳かに 
息子、娘、夫などを失った白装束の遺族「涙」
17日、5・18民衆抗争40周年追悼祭に出席したパク・クァンナムさんが、遠くから父の墓を見つめている=キム・ヨンヒ記者//ハンギョレ新聞社

 17日午前に光州市北区雲亭洞(クァンジュシ・プック・ウンジョンドン)の国立5・18民主墓地で開かれた5・18民衆抗争40周年追悼祭。パク・クァンナムさん(43)は遺影の中の父親の若い顔を見て涙をこらえた。パクさんの父親(パク・コニョン、死亡当時42歳)は1980年5月24日、松岩洞(ソンアムドン)のブドウ畑で働いていたところ、戒厳軍同士の誤認射撃での流れ弾で頭を撃たれた。当時、互いを市民軍と誤認した第11空輸特戦旅団と戦闘教育司令部歩兵学校教導隊の銃撃戦で、住民4人が死亡し、複数名が大小の負傷を負った。

戒厳軍の銃弾で頭を負傷し後遺症に悩まされ、1988年に亡くなったパク・コニョンさんの墓//ハンギョレ新聞社

 脳に傷を負った父親は精神疾患に苦しみ、家庭をないがしろにし、家族に暴力を振るい、1980年8月に新軍部が社会浄化を掲げて作った三清(サムチョン)教育隊に連行されてもいる。拷問の後遺症に苦しんだ父親は、パクさんが中学3年生だった1988年、自動車事故でこの世を去った。パクさんは「幼い頃、父を恨んだ。(今は)私より若い父の遺影を見ると心が痛む」と話した。

戒厳軍の銃弾に息子を奪われたパク・スングムさんが17日午前、光州国立5・18民主墓地で行われた5・18民衆抗争40周年追悼式に出席した=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 5・18遺族会が光州民主化運動の翌年の1981年5月に望月洞(マンウォルドン)の旧5・18墓地で開いたのが最初の追悼祭は、5・18行事の中でも最も古い歴史を持つ。この日開かれた39回目の追悼祭には、白装束を身にまとった母親60人あまりを含む遺族と、5・18有功者など200人あまりが参加した。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で、席は間を広くとって配置され、参加者たちはみなマスク着用を義務づけられた。

5・18民衆抗争40周年追悼祭が17日、光州市北区の国立5・18民主墓地で開かれている=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 戒厳軍の銃弾に息子を奪われたパク・スングムさん(81)は「歳月は流れ去っても山河は知っている」(『あなたのための行進曲』の一節)と記された帽子をかぶって追悼式を見守っていた。息子の墓碑の裏には「民主化のために倒れた我が息子よ、ただただ誇らしい」と記されていた。追悼祭終了後、キム・ジュスクさん(65、釜山)は弟のキム・ウィギ烈士の墓の上に最近出版された『キム・ウィギ評伝』を載せ、しばらく号泣していた。キム烈士は1980年5月30日、ソウル基督教会館で5・18真相究明を叫び、印刷物(「同胞に贈る書」)をばらまき投身した。キムさんは「40周年の今年は亡くなった母(クォン・チェボンさん)がいっそう思い出される。弟が韓国の民主化に小さな役割を果たしたということは誇らしい」と語った。

キム・ウィギ烈士の姉キム・ジュスクさんが5・18民主化運動40周年を翌日に控えた17日、国立5・18民主墓地にある弟の墓で泣いている=キム・ヨンヒ記者//ハンギョレ新聞社

 5・18前夜祭はCOVID-19の影響で中止となった。5・18前夜祭は1988年、政府が5・18を民主化運動と認めたことから始まり、南区九洞(ナムグ・クドン)にある室内体育館から旧全南道庁と錦南路(クムナムロ)に移り、毎年開催されてきた。しかし市民たちはこの日、マスクをして錦南路を歩き、5・18民主広場に設置された展示物などを観覧した。5・18記念財団が用意した「サイバー参拝」空間には「5月を忘れません」という数百件の追悼コメントが書き込まれた。

キム・ヨンヒ、アン・グァノク、チョン・デハ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/945311.html韓国語原文入力:2020-05-17 21:12
訳D.K

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