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なぜ、かくも多くの青年が“悪評高い新天地”に集まったのか

登録:2020-03-05 21:05 修正:2020-03-06 07:37
罪は罪を犯した当事者だけの問題ではない 
青年の希望を奪い去り、恐怖と不安の未来を抱かせても 
その孤立感と孤独感を癒やせなかった社会共同体の罪なのかもしれない
新天地の教育修了式//ハンギョレ新聞社

# 新型コロナウイルス(COVID-19)のスーパースプレッダー“新天地”がニュースの焦点だ。新天地には、主流のプロテスタント教団が付けた“異端”のレッテルが貼られているが、キリスト教メディアでもなければこうした表現を使うことは難しい。新天地を解散させよとの国民請願が一気に100万人を超える程に“国民憎悪”の対象に浮上していてもだ。ローマ皇帝によって殉教された初期キリスト者も、カトリックによって火刑に処されたヤン・フス(Jan Hus)をはじめとする教会改革者やプロテスタントを開いたマルチン・ルターも、ジャンヌ・ダルクも異端者だった。キリスト教はまさに“異端の歴史”だった。したがって、異端や似而非は既成教団によって判明するのでなく、彼らの実、すなわち彼らの“道徳的行為”により判別するほかはない。

# 「魔女狩りに遭っている」という新天地の哀訴のみならず、「魔女狩り」は怒れる群衆が最も容易にできる選択肢だ。歴史的にも、ペストのような伝染病と自然災害、戦争などで多くの人が死んだり、支配階層の収奪により暮らしが疲弊した中で、スケープゴートが必要な時に登場したのが魔女狩りだ。中世に魔女と名指しされた人々は、ほとんどが女性、老人、孤児のような弱者だった。魔女狩りは、懲役刑程度に相当する罪に対しても、民意の名をもって過剰処罰を生みだすため、民主主義が最も警戒しなければならないものだろう。今は魔女狩りをする時でなく、スーパースプレッダーになった新天地が最も率先して事態収拾に協力させ、この事態を終わらせることに集中しなければならない時だ。

# 既存の教会をはじめとする既成の宗教には若者たちの姿が容易に見当たらないのに、新天地にはどうして青年がかくも多いのかと思う人々が多い。それは単に執拗な新天地の偽装布教戦略のためだけだと言えるだろうか。すでにドストエフスキーが『罪と罰』で示したように、罪は罪を犯した当事者だけの問題ではない。青年の希望を奪い去り、恐怖と不安の未来を抱かせても、その孤立感と孤独感を癒やせなかった、私たちの社会共同体の罪なのかもしれない。「何よりも青年が新天地の中で幸せそうにしているのを見れば、既成の教会が過度に物質的祝福・来世救援にのみ没頭し、既成の宗教家が老害ゆえに若者の目の高さに合わせられなかったことも大きな原因」という新天地研究者の見解を再確認してみる必要がある。

# 2日、新天地のイ・マンヒ総会長の記者会見で見たように、彼は89歳という年齢に相応しく老いている。彼が教会信者に教えた通り、永生する可能性はゼロだ。救援の数字として14万4千400人を提示し、それに含まれるために家庭も仕事も職場もないがしろにして人生を教会に没入させることは、個々の人生として見れば残念きわまりない。それでも、なぜ、かくも多くの人々がそこに人生を捕らわれたのだろうか。“新天地”以外の既成の教団、既成の宗教には責任がないのだろうか。

 多くのキリスト教が来世救援論を展開する一方で、新天地は現世救援論を展開する。新天地は「個人の不正と世襲により欲望に支配された大型教会の牧師が話す来世救援はどこにあるのか」と主張する。すでに既存の教会内で、こうした姿に対して「イエス・キリストでなくマモン(富)を崇拝している」とする警告さえ無視したことが、“新しいもの”に対する渇望をあおりたてたのではないか。国民皆がウイルス拡散を防ぐために心を砕いているのに、保守教会を代弁する韓国教会言論会は「礼拝は教会の存在理由」として「教会の礼拝ではなく電車、バス、タクシーの運行を止めるべきではないか」と主張した。「そこに何の救援があるのか」という新天地の論理を後押しする主張はもうやめる時だ。代わりに、今は善良な行動こそが切実に必要な時だ。財政的損失を甘受して、礼拝、ミサ、法会の中断に参加し、大邱(テグ)に医療支援をしに駆けつけたり、献金と寄付金を送り苦痛を分かち合っている人々のように。

チョ・ヒョン宗教専門記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/religious/931008.html韓国語原文入力:2020-03-05 09:04
訳J.S