23日、盧元大統領死去10回忌
地域主義を破って挑戦した釜山
その希望に共感する市民が増える
1党独占を終え、地域主義が弱まり
「国民統合の政治を継いで走ろう」
3回の落選、死去…変化の始まり
地域主義に対抗し、ついたあだ名は「ばか盧武鉉」
彼が去った後、市民の意識に変化
「亡くなった後、すまないと思い…
党ではなく候補を見て投票することに」
「地域対決の政治がこの国をだめにしています。地域構図のために、嶺南(ヨンナム=釜山、大邱、蔚山、慶尚道地域)の大統領が湖南(ホナム=全羅道地域)へ行くと区議員にもなれず、湖南の大統領はここ釜山に来ると区議員になれない、そんな政治になっています。それでわが政治が、国が揺れています。嶺南と湖南の半分の指導者ではなく、全国民を一つにまとめる統合と和合の指導者になります」
2000年4月2日、釜山江西区(カンソグ)大渚(テジョ)1洞の江西区役所近くの大上小学校には数千人が集まっていた。彼らは当時第16代総選挙に出た釜山北江西乙の候補者の合同演説を見守るために集まった人たちだった。この場で盧武鉉(ノ・ムヒョン)新千年民主党(当時)候補は「地域主義打破」を声高に叫び、支持を訴えた。地域主義打破は彼の生涯の課業だった。
しかし、相手候補は露骨に地域感情を煽った。当時ハンナラ党のホ・テヨル候補は、「暮らし向きが以前より良くなったと思う人がいれば手を上げてほしい」と言った後、誰かが手を上げると、「もしかして全羅道から来たのではないか」と皮肉った。「盧武鉉が民主党の次期大統領候補になっても民主党を『湖南党』といって憎みますか」と書かれた盧候補の選挙広報物についても、ホ候補は「全羅道の人が主軸の民主党で嶺南の人が大統領選候補になるというのが笑えるではないか」と嘲笑した。この選挙で、釜山市民は亡国的な地域感情を悪用したホ候補に勝利を贈った。選挙序盤にリードしていた盧候補は、17.5%の大差で負けた。釜山だけで三度目の落選だった。
しかし、この敗北は「大統領盧武鉉」の始まりでもあった。「大韓民国の政治の中心」とされるソウル鍾路区(チョンノグ)を捨て、当時の政治的な死地だった釜山から出馬し、壮烈に敗北した盧元大統領に、人々は「ばか盧武鉉」というあだ名をつけた。盧元大統領について「希望」を語る市民も増えた。インターネットでは自発的ファンクラブの「盧武鉉を愛する人々の会」、いわゆる「ノサモ」が誕生した。
いまだに釜山では自由韓国党に対する支持が少なくないが、盧武鉉が三度目に落ちた19年前と比較すると桑田碧海となった。地域主義はだんだんと弱まっている。17日に会った大渚1洞の住民Jさん(68)は、「10年前、盧元大統領の死去のニュースを聞いてすまないと思った。合同演説会で『統合と和合の指導者になる』と言った彼の言葉が思い浮かんだ。私にできることは、選挙で党ではなく、候補をしっかり見て投票することだ。私のような人が増えれば地域主義が消えるのではないか」と述べた。
大渚2洞のある町で会ったLさん(65)も「第16代総選挙当時、隣のおじさんのような素朴な姿と真摯さに惚れ込んで選挙ボランティアとして活動した。当時、町バスが走っていなかったので不便だったが、落選した後も『町バスは心配しなくていい』と言った。そして本当に町バスが通りはじめた。盧元大統領は落選しても自分の公約を守るために努力した、そんな人だった」と振り返った。盧元大統領が地域構図の解消に乗り出したのは、1990年に遡る。人権弁護士として活躍していた彼を、1988年の第13代総選挙に引き込み、釜山の国会議員にした金泳三(キム・ヨンサム)統一民主党総裁が、1990年に電撃的に当時与党の民主正義党、新民主共和党と3党統合をした。当時彼は、党統合決議大会の会場で「異見があります。反対討論をすべきです」と叫んだが、金泳三は答えなかった。
盧元大統領は統一民主党を離党した後、民主党を立党し、1992年に第14代総選挙で釜山東区に挑戦した。しかし、彼は軍事政権の「末流」だったホ・サムス民主自由党候補に敗れ、3年後の1995年に釜山市長選挙に挑戦し、ムン・ジョンス民自党候補に再び敗れた。金泳三が3党統合をしたことで、釜山は長きにわたる「野党道」から「与党道」に変わり、民主自由党-新韓国党-ハンナラ党-セヌリ党-自由韓国党など保守政党の温床となった。
しかし、3回の落選を含めた盧元大統領のたゆまぬ挑戦は、釜山の地域主義に小さな亀裂を生みはじめた。2004年の総選挙で釜山地域で初めて開かれたウリ党(現在の共に民主党)候補が当選したのを皮切りに、2012年の総選挙で2議席、2016年の総選挙で5議席を民主党系の政党が獲得した。昨年の補欠選挙の当選者1人まで合わせると6議席となる。現在、釜山の選挙区議員18人のうち3分の1が民主党だ。昨年の地方選挙ではさらに大きな驚くべき変化が起きた。万年野党だった共に民主党が、23年ぶりに釜山の地方政府を交代させた。オ・ゴドン共に民主党候補が釜山市長に当選し、釜山市議会議員47人のうち41人を民主党が占めた。釜山の基礎団体長16人のうち13人も民主党だ。
シン・ユル明智大学教授は「盧元大統領は地域主義打破のために多くの努力を傾けた。彼が大統領に当選したのも、地域主義打破に向けた前進だった。しかし、依然として韓国の政治から地域主義は消えていない。地域主義が再び出ないよう、政界全体が使命感を持たなければならない」と話した。キム・ヒョンジュン明智大学教授も「民主党が2016年の総選挙の時に釜山など嶺南地域で8議席を得て、昨年の地方選挙で嶺南で圧勝したのは、盧元大統領が蒔いた種のおかげだ。今後、この種がさらに大きな成果を上げるには、政党を越えてより公正な人事と公正な選挙制度が必要だ」と話した。
盧元大統領は去ったが、釜山では、第2、第3の盧武鉉たちが生まれている。キム・ヨンチュン元海洋水産部長官は、盧元大統領のように安定したソウルを捨て釜山に来て、2012年の総選挙に挑戦し落選した。しかし、4年後に彼は結局釜山で当選した。彼は「あの方が蒔いた種が実っている。亡くなってからすまないという気持ちが多かった。だから地域主義の克服と国民統合の政治を継いでいかなければと決心した」と話した。
大田(テジョン)地方裁判所の判事を辞め、1978年に釜山に来て、繁盛した弁護士として名を馳せた盧元大統領を人権弁護士にしたのは釜林事件だ。釜林事件は、1981年に全斗煥(チョン・ドゥファン)政権が釜山地域の学生運動を抹殺するため企画捜査を行い、拷問や暴行に明け暮れた末に得た陳述書を裁判所に提出し、国家保安法違反などの容疑で19人を拘束した事件をいう。
釜林事件当時、盧元大統領の弁護士事務所は、東亜大学富民キャンパスの裏門前の路地の3階建てビルの3階(200平方メートル)にあった。1980年に賃貸し、1982年に7歳年下の文在寅(ムン・ジェイン)大統領がこの事務所に合流した。二人はここで苦楽をともにし、釜山を代表する人権・労働弁護士として活動した。1982年に盧武鉉弁護士事務所に入り、2年後に事務長を務めたチェ・ビョンドゥ氏(69)は、「盧元大統領と7年間一緒に働いたが、業務の手際が悪いと一度も怒ったことがなく、いつもよくやったとほめてくれました。驚くべき記憶力の持ち主でした」と思い出を語った。
ノサモ(盧武鉉を愛する人々の会)を通じて政治に入門したパク・イニョン釜山市議会議長は「盧武鉉の価値は地域主義からの脱皮だけでなく、脱権威主義と南北関係の改善、庶民中心経済などさまざまだ。各自のやり方で実践することが重要だ」と話した。カン・セヒョン新羅大学教授は「1987年の6月民主抗争当時、盧元大統領がほかの人たちとは違い、逃げずに道路に横たわっているのを見て驚いた。盧武鉉精神は共同体に対する献身と愛、そして実践だと思う。釜山でも執権や出世の道具として盧武鉉精神を利用すれば、市民は許さないだろう」と述べた。