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「安全企画部、“仁川5・3民主抗争”事件の命名から捜査指揮・調整」

登録:2019-05-03 21:31 修正:2019-05-04 06:58
民主化運動記念事業会、事件資料約3100ページを分析 
当時の安全企画部の直接介入事実を文書で初めて確認 
「時効過ぎても人権侵害調査と補償が必要」
1986年5月7日、当時の国家安全企画部仁川分室長が京畿道警察局長、仁川地検長に送った通信文「5・3仁川騒乱捜査調整」資料によれば、民主抗争を「仁川騒乱」と規定し、騒擾の指令者と不純団体幹部、連携組織を根絶する捜査を指示している=民主化運動記念事業会提供//ハンギョレ新聞社

 1980年5月、光州(クァンジュ)民主化運動以後最大規模のデモだった「仁川(インチョン)5・3民主抗争」(いわゆる仁川5・3デモ事件)を、当時の国家安全企画部(現、国家情報院)が直接指揮・調整していた事実が事件発生から33年ぶりに初めて明らかにされた。

 民主化運動記念事業会が3日、国家記録院から受け取ったこの事件の記録物を分析した結果に基づき、このように発表した。この事件資料は、事件発生から33年ぶりに初めて公開された。仁川5・3民主抗争は、1986年5月3日、仁川市彌鄒忽区(ミチュホルグ)の朱安(チュアン)駅近隣の仁川市民会館前広場(現、市民公園駅一帯)で、首都圏地域の市民団体、学生、労働者などが軍部独裁打倒、直接選挙制改選を要求したデモだ。1980年5月の光州民主化運動以後、最大規模の民主化運動だった。当時検察は、このデモを左派の容共勢力による組織的体制転覆の企みと断定し、刑法115条の騒擾罪を適用し129人を拘束、60人を指名手配した。

 事業会は、当時京畿道警察局が作成した「デモ事件総合捜査状況」、「総合捜査報告」、「被疑者に対する捜査経緯報告」、「捜査指揮稟申」など3100ページ余りを分析した。分析結果によれば、当時安全企画部は「5・3仁川騒乱」とこの事件の名称を定め、対共方針指示、拘束対象選定、訓戒者決定など全てについて“調整”という名目で指揮した。検察の指揮を受けなければならない捜査機関(安全企画部)が、逆に検察を指揮したわけだ。

 記録物から発見された「拘束捜査通知」文書には、安全企画部仁川分室の偽装名義である「インファコンサ」が京畿道警察局にデモ関連拘束捜査対象者を指定し通知した。また、京畿道警察局の「5・3仁川デモ関連者捜査状況報告」資料には、デモ参加者に対して「安全企画部、検察が一致協力し訓戒意見で安全企画部本部に調整中」という内容もある。さらに京畿道警察局の「拘束被疑者身柄引渡し状況」資料には、拘束収監された人に対する刑務所内での面会状況の秘密録音など、当時疑惑として提起された不法な警察の捜査行動がそっくりあらわれた。

 チ・ソン民主化運動記念事業会理事長は「全斗煥(チョン・ドゥファン)政権は『仁川5・3民主抗争』を政局運営の反省点とすることなく、危機に処した独裁政権を維持するための手段として民主化勢力に対する大々的弾圧に突入した。この過程で、86年6月富川(プチョン)警察署性拷問事件と87年1月の南営洞(ナミョンドン)対共分室拷問致死事件が起きた」と指摘した。さらに「時効が過ぎたとはいえ、人権侵害に対する調査はなされなければならず、安全企画部の捜査調整権など民主主義を傷つける法制度の整備が必要だ。拷問被害者などに対する国家次元の補償が必要だ」と付け加えた。

イ・ジョンハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/892551.html韓国語原文入力:2019-05-03 20:05
訳J.S

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