“虐殺者”の顔を見た瞬間、血が逆流する思いだった。深呼吸をしてかろうじて怒りを静めた。11日午後2時29分、光州(クァンジュ)地裁201号大法廷に入る全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領の姿からは、予想どおり罪悪感は見られなかった。全氏は眼鏡をかけて口を固くむすんでいた。夫である全氏を「民主主義の父」と持ち上げたイ・スンジャ氏(80)も一緒だった。
「5・18民衆抗争負傷者同志会」初代会長を務めたイ・ジヒョンさん(65)は、複雑な心境で傍聴席に座った。イさんは5・18の時、片目を失った。1988年、国会「光州聴聞会」の時は眼帯をつけて出席、空輸部隊に殴られた事実を証言した。5・18以降、真相究明闘争に乗り出し、保安隊の地下室に連行され過酷な拷問を受けた。イさんは8日、裁判の傍聴者に選ばれた後に「あいつが来る」というタイトルの文章をフェイスブックに上げた。彼は「苦痛に再び向き合うことはつらいが、5・18真実究明のため目を見開いて裁判を見守る」と記した。
法廷には緊張感が漂った。検事の公訴要旨の朗読が終わると、全氏側の弁護人は「チョ・ビオ神父が『破廉恥な嘘つきだ』というのは侮辱罪になるかもしれないが、死者名誉棄損の事実適示には当たらない」と主張した。予想していた通りだ。イさんの目に、椅子の背にもたれて座りヘッドホンをつけたり外したりしながら、夫人のイ氏と言葉を交わす全氏の姿が目に入ってきた。光州の法廷で、どうしたらあのような態度を見せられるのか。虐殺者のふてぶてしさに、かろうじて押さえていた怒りが再び込み上げた。
突然、ある傍聴者が「裁判長に一言言ってもいいか?弁護人は嘘をついている」と叫んだ。傍聴者はすぐに警衛に制止された。
全氏夫婦は、視線を裁判席側に固定したままだった。堂々としたふりをしているが、“後暗ければ尻餅つく”ように光州市民と目が合うことを恐れているのだとイさんは推測した。公判を終え、判事は「これから裁判を集中審理で進める」と述べた。次の公判は4月8日午後2時に決まった。全氏夫婦が弁護人と耳打ちして、何かを相談した。裁判の時期と手続きの有利・不利を考えたようだ。
午後3時45分に裁判が終わった。傍聴席で誰かが「全斗煥、この殺人鬼、謝って行け」と叫んだ。“虐殺者”は目を何度かしばたき、妻のイ氏と共に退廷した。
全氏が光州地裁に到着したとき、もう一人の5・18市民軍キム・テチャンさん(58)も遠くからその光景を見守った。瞬間、キムさんの頭の中には、1980年5月27日のその最後の明け方、そばで銃弾を受けて死んだ友人の姿がちらついた。機動打撃隊7組の組長だったキムさんはこの日、道庁本館2階で逮捕され苦難を強いられた。「顔ばかり見ていましたよ。何の言葉が要りますか。ずたずたにして殺したい。虐殺者をこんなに保護してあげる国がどこにありますか?」というキムさんの言葉には、苦々しさがにじみ出ていた。
「5月の母」のイ・グンレさん(82・光州市南区月山洞)は、全氏がソウルを出発したというニュースを見てから、光州地裁前の道に出て「奴」を待った。急いで建物の中に消える「奴」の姿に、イさんの顔がゆがんだ。イさんの息子のクォン・ホヨンさん(1962年生まれ)は、同年5月26日に自宅にしばし帰って来て出かけたきり、行方不明になった。息子は2001年10月、無名烈士11人が埋葬された望月洞(マンウォルドン)の墓地で発見された。行方不明者家族の遺伝子検査を通じて21年ぶりに遺体を収拾したのだ。イさんは「1カ月以上国会前で座り込みをし、『奴』の裁判を見るために光州に来た」と話した。
午後4時15分、全氏が裁判所の建物から出てきた。階段を下りて車に乗った彼を、5・18団体メンバーの一部と市民が防ぎ、あちこちで「殺人魔」という叫び声があがった。しかし、それだけだった。自分たちの行動が5・18を歪曲しようとする勢力に口実を与えるという心配のため、それ以上の行動を自制したようだった。16分ほど市民に取り囲まれていた全氏の乗用車が裁判所交差点の方へ抜け出した。それまでその場に居続けていたイ・グンレさんは、座り込んで泣き叫んだ。「あれでも人間か?ここまで来て、謝罪の一言もないなんて…」