「70人以上の民間人が殺害されたのに、果たして“仕方のない犠牲”と見ることができるのかどうか、極めて疑わしい…ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺が派兵期間全体にわたって発生したのではないか、合理的な疑いが持たれる…。主文。大韓民国は原告らに国家賠償法賠償基準によって賠償金を支給し、原告らの尊厳と名誉を回復するように公式謝罪せよ」
22日午後5時、2日間にわたった「ベトナム虐殺真相究明模擬法廷」が終わり、裁判部が宣告結果を朗読すると、グエン・ティ・タンさん(58)が浅いため息をついた。固く結ばれていた口元にも、初めて明るいほほ笑みが広がった。家族5人を失ってからちょうど50年後に下された賠償判決だった。「体が震えます。嬉しいニュースを持ってベトナムに堂々と帰ります。他の犠牲者の方々の痛みを少しは癒すことができると思います」
ベトナム戦争当時、韓国軍による民間人虐殺の真相を究明しようとする「市民平和法廷」が21~22日の両日間、ソウル麻浦区文化備蓄基地で開かれた。調査で韓国軍に135人の命を奪われたことが明らかになったハミ村の被害者、グエン・ティ・タンさん(60)と74人が殺害されたフォンニィ・フォンニャット村のグエン・ティ・タンさん、同名である二人が国家賠償訴訟の原告として韓国の地を踏んだ。自分と家族が負った被害に対して、韓国政府の損害賠償金の支給と真相調査などを請求する訴訟だ。模擬法廷の形であるため強制力はないが、ベトナム民間人虐殺の公論化を促す趣旨で行われた行事だ。
キム・ヨンラン元最高裁判事やイ・ソクテ前セウォル号特別調査委員長(弁護士)、ヤン・ヒョナソウル大学法学専門大学院教授で構成された市民法廷裁判部は、彼らの請求をほとんど受け入れた。裁判部は先に被害者証言などをもとに、二つの村で200人あまりの民間人が殺害されたと認め、二人の原告に対する韓国政府の補償と公式謝罪を求めた。裁判部の召喚要求に応じなかった被告“大韓民国”の代理人になった「民主社会のための弁護士会」弁護士らが、「敵軍と味方を識別しづらいゲリラ戦の状況で発生した意図しなかった犠牲」だと主張したが、裁判部は「ほとんどの犠牲者が高齢者や子ども、女性だった。意図された集団虐殺だと判断される」と指摘した。裁判部はさらに、韓国軍参戦期間(1964~1973)の間、民間人を対象にした違法行為一切について、真相調査を行うことも勧告した。また、「人権侵害の事実が後の世代に語り継がれるようにする必要がある」とし、ソウル龍山区(ヨンサング)戦争記念館など韓国軍のベトナム戦参戦展示空間に真相調査結果を明示するよう判決した。
「過去の不幸を正直に明らかにして直視し、真実を共有して慰労とともに穏当な治癒策を設けよう」。市民法廷初日の21日午前、イ・ソクテ弁護士が裁判の開始を知らせた。その後、フォンニィ・フォンニャット村の虐殺当時参戦したある軍人の供述を撮った映像が法廷で再生された。彼は「古参兵が助けてくれと哀願したおじいさんを撃った。軍人精神に合わない」と話した。
グエン・ティ・タンさんはフォンニィ・フォンニャット村に住んでいた8歳の子どもに戻って証言した。彼女は1968年2月12日、腹を銃で撃たれた。兄の尻、弟の口もめちゃくちゃにされたと述べた。「遺体で覆われた田んぼを一つずつ通りながら、ずっと『母さん、母さん』と呼びました。後から、遺体の山の中に母もいたと知りました。畑で野菜を採っていたところ、韓国軍が一方に追い込んで殺したそうです」。10日後、“ハミ”村もフォンニィと同じ境遇に置かれた。防空壕に投げられた手榴弾はグエン・ティ・タンさんの左の耳聴力だけでなく、母と弟も奪った。「弟は昏睡状態で三日間『母さん、起きてご飯をつくって』と言って死にました。最近もその日の悲鳴、弟が母を呼んでいた声が聞こえます」。通訳のグエンさん(34)の涙まじりの通訳に被告側の代理人を含め、法廷中がすすり泣いた。
今回の裁判には市民平和法廷憲章により、現実では適用するのが難しいいくつかの原則が適用された。賠償請求権消滅時効は実際の訴訟の場合、最も大きな難関になるが、市民平和法廷憲章は「消滅時効の規定は適用されない」とした。二人のグエン・ティ・タンに質問する権利も、裁判部のみが持った。50年ぶりに苦しい記憶を引き出した彼らに、2次被害を与えないためだ。
傍聴席を埋め尽くした300人以上の市民は連帯の意思を伝えた。京畿道南楊州好坪中学校から来た生徒たちは、二日間広報ブースを運営し、両被害者を直接描いた絵も伝えた。今年の夏、ベトナム戦争被害地域へのボランティア活動を控えて法廷を訪れたイ・サンヒョプ君(15)は「国家が戦争という名分の下、このようなことをしたならば、『果たして国とは何なのか』という疑問を持つようになった」と話した。