解放から72年も経ったが、ソウルの地名の30%以上は依然として日帝の支配から抜け出せていないことが分かった。
14日、韓国地名学会の説明を総合すれば、ソウルの法定洞467個のうち30%以上の140洞の名前が日帝時期に誤って付けられたものであることが分かった。残りの70%も、朝鮮時代まで使われた伝統地名ではなく、日帝が1914年に洞名称改定時に既存の地名を参考にして新たに付けた地名だ。解放後、日帝が誤って付けた地名の一部は直したが、大部分は日帝式の“町”を韓国式の“洞”に変える水準だった。
例えば、日帝の洞名称改定で太宗(テジョン)李芳遠(イ・バンウォン)と世宗(セジョン)が暮らした村の地名が完全に消え去った。『朝鮮王朝実録』によれば、世宗が生まれたところはソウル北部の「俊秀坊」潛邸(王の私邸)であり、育って即位したところは北部の順化坊「壯義洞」本宮(王の私邸)だった。しかし日帝の歪曲で俊秀坊は通仁洞(トンインドン)に、壯義洞は孝子洞(ヒョジャドン)に変えられた。特に壯義洞は朝鮮時代、現在の西村(ソチョン)地域の代表的地名なのに、日帝の歪曲により完全に消えてしまった。
また、ソウルで最も由緒深い地域であり、高麗時代に南京(ソウル)の郷校があった村である「(郷)校洞」は楽園洞(ナグォンドン)に変わった。日帝がこの一帯の地名の一つである「園洞」に「楽」字を勝手に付けて作ったでたらめな地名だ。五葉松が多かった「栢洞」(松の実谷)は東崇洞(トンスンドン)に変わった。「崇教坊」の東側町内という誠意のない名前だった。この他にも「薬コゲ」(薬ヒョン)は中林洞(チュンニムドン)に、「トングルネ」(蔓草川)は旭川(ウクチョン)に、「漢ネ」(漢川)は中浪川(チュンナンチョン)に勝手に変えられた。
当時日帝は、人が多く暮らし知名度の高かった鍾路区(チョンノグ)一帯の地名は既存の地名2個以上を混ぜ合わせる方式で歪曲した。「玉流洞(オクリュウドン)」と「仁旺洞」(インワンドン)は玉仁洞(オギンドン)に、「清風渓」(チョンプンゲ)と「白雲洞」(ペクウンドン)は清雲洞(チョンウンドン)に、「雲ヒョン洞」と「泥洞」(ニドン)は雲泥洞(ウンニドン)に、「寛仁坊」(クァンインバン)と「大寺洞」(テサドン)は仁寺洞(インサドン)に変えて、本来の地名の意味を失わせた。また「楼閣洞」(ヌガクドン)は楼上洞(ヌサンドン)と楼下洞(ヌハドン)に分けることもした。
地名学会のペ・ウリ名誉会長は「直ちに昔の地名を復活させることはできないとしても、昔の地名を調査してよく整理しておかなければならない。それでこそ後に地名を付け直す時に活用できる」と話した。ファン・ビョンウ韓国文化遺産政策研究所長は「解放後に親日派が政権を掌握し日帝式地名を清算する作業がなされなかった。今からでも韓国の実情に合わない道路名住所の導入を中断し、正しい昔の地名を蘇らせる事業を始めるべき」と話した。