昨年9月、慶尚北道慶州(キョンジュ)でマグニチュード5.8の地震が起こったまさにその日だ。慶州から70キロ以上離れた釜山機張郡長安邑吉川(キルチョン)村でクリーニング屋を営んでいるキム・ジフンさん(仮名・74)は、揺れがおさまるとすぐに思わず家の外に飛び出した。村のすぐ隣にある古里(コリ)原発1号機に、万が一にも問題が起きたのではないかと不安になったからだ。
「当時、家が激しく揺れました。ちゃんと立っていられないほどでした。言葉で表現できない不安を感じました。不安はいまも変わりません。娘と息子にはここが故郷だけれど、お前たちは遠く離れて暮らすべきだといつも言っています」
19日、韓国の原子力発電所としては初めて永久停止した古里原発1号機が見える吉川村で会ったキムさんは、「設計寿命が尽きた古里1号機を廃炉にするのは当然のこと」としながらも「原発解体技術も確保できていない状態で、(永久停止した古里1号機が)きちんと管理されるのか疑問」だと不安を表した。
生涯をここで暮らした彼の不安には長い歴史がある。キムさんは「40年間、古里1号機で大小の問題が発生するたびに、運営主体である韓国水力原子力は住民にちゃんとした説明をしなかった。廃炉後、解体作業もそのように行いそうで心配だ」と話した。
キムさんは1943年、吉川村の隣にあった平凡な漁村の古里村で生まれた。古里村は1977年6月18日、古里1号機が建てられたことで歴史の中に消えた。当初、古里原発建設前に政府は住民たちに対し「電気工場が建設される」と話した。電気が貴重な時代だった。住民たちは最初は喜んだ。しかし、電気工場を建設するには村人たちが丸ごと移住しなければならないと聞いた後からは反対した。キムさんは「当時、朴正煕(パク・チョンヒ)政権は住民たちを強制的に移住させた」と語った。古里原子力本部の入り口に建てられた「古里追憶の碑」には古里1号機建設で移住した村の住民は162世帯1250人と書かれている。
彼は吉川村に生活の場を移した後、1979年に村にクリーニング屋を設けた。キムさんは「暮らしにゆとりがあれば、すぐにでも原発から離れたところに住みたい。生活基盤がここにあるから村を離れられずにいる。他の住民たちも似たような境遇」だと話した。
キムさんは1986年、ロシアのチェルノブイリ原発事故のニュースを聞き、原発が危険だということを知った。3年後、その危険性は吉川村に降りかかった。1990年、古里原発の敷地に設置された中・低レベル放射性廃棄物臨時貯蔵庫が飽和状態に達すると、政府が近所に新しい貯蔵庫を建てようとした。住民たちは決死反対した。2011年、日本の福島原発事故はキムさんが原発について勉強するきっかけとなった。キムさんは新古里5・6号機建設白紙化に対しては「後世に被害を与えないよう、徹底した安全管理対策を立てて進めてほしい」と話した。
「住民たちは古里原発のために多くの犠牲に耐えました。しかし、政府は住民たちを守りませんでした。古里1号機は廃炉が決まったが、古里2号機など古い原発は依然として稼動しています。住民たちを安全な地域に移してくれるよう願います」。原発を頭上に抱え、40年を暮らしてきたキムさんの願いはかなうだろうか。
韓国語原文入力:2017-06-19 20:47