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拉致・投獄・軟禁・死刑宣告…弾圧突き抜け咲いた‘忍冬草’

原文入力:2009-08-18午後04:28:30
[金大中前大統領 逝去] 屈曲多き一代記<1>出発
大学進学 放棄後 徴用避けて会社就職
事業家・言論人として活動し‘急成長’

イユ・チュヒョン記者,ソン・ホジン記者

←金大中前大統領の生涯(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)

金大中前大統領は1923年陰暦12月(陽暦では1924年1月)全南,新安郡,荷衣面,後広里で父キム・ウンシク氏と母チャン・スグム氏の間に次男として生まれた。彼は後ほど日帝の徴用を避けるため出生年度を1925年に直したという。荷衣面は木浦から航路で150里離れたひっそりとした島だ。後広里は彼の雅号‘後広’になった。

←80年代初めは全.盧氏の全盛期だったが両金には苛酷な試練期だった。

彼の両親は荷衣島で農作業をし漁夫たちを相手に客主業を営んだ。金前大統領が荷衣国民学校(小学校) 4学年になった年、両親は息子を教育のために陸地の木浦に移住し、金前大統領は木浦第一普通学校(現木浦北橋初等学校)に転校した。木浦で両親は旅館業を営んだ。学校で金前大統領は日本人生徒たちの‘いじめ’(集団除け者)に苦しめられた。しかし屈することなく学校に通い、特に演説に素質がありしばしば一人で演説をしたりした。1939年この学校を首席で卒業し木浦日報社長賞を受けた。

←大韓民国第15代大統領を務めたキム・デジュン前大統領が18日午後1時42分逝去した。写真は金大中前大統領が1973年8月8日日本で発生した金大中拉致事件直後の14日、東橋洞の自宅で拉致と関連した会見をしている様子. 1973.8.14

引き続き当時、地域名門の木浦公立商業学校(現木浦商高)に進学した。1学年の時は入学成績により決まる班長を担当することもした。初めは就職班に入ったが2学年を終え友人らの勧誘により進学班に移った。語学と歴史に関心が多く、同じ年頃の女子学生らに人気があったと伝えられる。

44年木浦商高を卒業した後、彼は進学の夢をあきらめなければならなかった。名門大だった満州建国大に受験したが書類選考で落第した。彼は再修をあきらめ木浦商船会社に就職した。日帝の徴用を避けるためのことだった。45年解放になるや夢陽 呂運亨先生が導く建国準備委員会に参加したがまもなく脱退した。その年、彼は木浦商船会社の経理管理に続き財産管理人に選ばれ11月には代表となった。彼の事業は高度成長を繰り返した。全南船舶木浦組合長,大洋造船社長などを経て48年木浦日報を取得し主筆まで兼ねることになる。51年には木浦海運(興国海運)社長に続き、全南海運組合会長に就任した。45年には美貌のチャ・ヨンエ氏と結婚し48年長男ホンイル氏をもうけた。

彼の人生序盤はそれほど特別なものではなかった。

イユ・チュヒョン,ソン・ホジン記者edigna@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/371809.html 訳J.S