検察改革を初めて試みた大統領の死で終わったシーズン1、2度目の検察改革を挫折させた検察総長の大統領当選で締めくくったシーズン2に続き、検察改革の3度目の話はシーズン2の主人公が内乱を起こして罷免される場面から始まる。劇的などんでん返しと卑劣なトリックが飛び交うこの長いドロドロ劇は、シーズン3で終幕を迎えることができるだろうか。
シーズン2の主人公、尹錫悦(ユン・ソクヨル)があたかも検察改革に協力するかのように大統領府をだまし、検察総長に任命された後、「合法的に」権力を占めた手法は単純だった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の大統領選資金を捜査し、検察改革の試みを無力化したシーズン1の成功公式をそのまま借用したのだ。いわゆる「生きている権力の捜査」のフレームが作動すると、「検察捜査権の完全はく奪」を含む一切の検察改革の試みが、政権に向けた検察の正当な捜査を妨害する弾圧へと変わってしまった。 シーズン1の教訓を生かそうという声がなかったわけではないが、「チュ・ミエ法務部長官と尹検察総長の対立」でふくらんだ政権と検察の激突に圧倒され、その声は跡形もなくかき消され、ほとんどのマスコミは尹錫悦と検察側に立って戦いを煽った。
最も致命的な決定打は、改革勢力の内部から飛んできた。検察改革は結局パワーエリート間の権力闘争に過ぎず、暮らしの問題や疎外された人々の生活改善とは何の関係もないという主張だった。政権初期に積弊清算の捜査を検察に任せた愚かさ、捜査と起訴の分離という自明な解決策をめぐり、検察と警察の捜査権の調整や高位公職者犯罪捜査処(公捜処)の設立など迂回路を選んだ気弱さ、検察を人事で掌握できると思い込んだ安易さも失敗の原因に挙げられる。だが、検察改革勢力の誤った認識がもたらした敵前分裂こそ最も重大な敗因だった。認識とフレームをめぐる闘いで負けたうえで始めたゲームだった。
検察改革はパワーエリート間の権力闘争ではなく、抑制と均衡という民主主義の基本原理を回復しようとする運動だ。国家が法律で行使できる強制力を事実上独占した検察は、民主主義体制の例外的存在として民主主義を脅かした。ファクトでマスコミを操る能力まで手に入れたことで、足かせが解けたリヴァイアサンと化した。検察を利用した司法クーデターで政権を握った尹錫悦が、軍と警察を動員した親衛クーデターを敢行したのは自然な展開だ。内乱は検察改革に失敗した代償だ。
検察は内乱の宿主であり尖兵だった。尹錫悦から噛みつけと言われれば噛みつき、舐めろと言われれば舐めた。政敵の制圧という尹錫悦の欲望と「反検察勢力の除去」という検察の欲望の運命的なランデブーだった。身内をかばうこととは次元が異なる政治的同盟が誕生し、法と銃をすべて掌握したと信じた尹錫悦は、長期独裁の妄想に向かって猪突猛進した。検察改革が民主主義の存立に直結した事案であり、国民の自由と命がかかった問題であることは、「尹錫悦内乱」によって事後的にも証明された。検察改革は、民主主義に必要な一つの措置ではなく、民主政体制の成立の基本前提だという認識を明確にしなければならない。検察改革は理念の問題ではなく、政派的な有利と不利を問う問題でもない。
本格的にシーズン3を見始める前に解決しなければならない認識の課題は多いが、紙面の関係上、ここで一つだけ挙げるなら、20年以上続いた検察のガスライティングから抜け出すことだ。「警察無能論」が代表的な例だ。 巨悪には大きな刀(検察)が必要だという「巨悪清算論」も同じ内容の変奏に過ぎない。検察が有能に見える理由は、令状請求権と捜査権、起訴権と刑執行権をすべて持っているからであって、司法試験をパスしたエリートだからではない。弁護士資格のある法律家は警察にも多い。今回の内乱でも確認したが、検察は警察が申請した令状を勝手に差し戻し、横取りすることもはばからない。警察が令状を発付してもらい確保した押収物を、検察が令状を再び請求して自分のものにすることさえある。検察は制度によって与えられた権限を利用し、警察をバカにし、無能だというイメージを植え付けた。「公捜処無能論」も同じだ。能力を発揮できないように組織を縮小し、捜査権と起訴権を制限した結果だ。
捜査権と起訴権の分離は改革の目標ではなく出発点だ。捜査は重大犯罪捜査庁と警察、公捜処がそれぞれ抑制できるようにし、起訴の場合、米国の起訴大陪審のように一般国民が主要事件の起訴を直接決められるようにしなければならない。この数十年間、検察の行動を無気力に眺めるしかなかったまさにその怒りの地点に、民主的原理が介入できる制度を作って貫かなければならない。悪口を言いながら見るドロドロ劇は、シーズン2で最後にしなければならない。