原文入力:2009-01-05午後08:49:01
←イ・ボム教育評論家
いつからか我が国大学関係者たちが‘先進国の大学は学生選抜を自律的にするから競争力が高い’という話をオウムのように喚き出した。 ところがこれは嘘だ。彼らの話が正しいならば、大学が平準化され一定の資格だけそろえれば誰でも入学させるヨーロッパの大学の競争力は韓国よりずっと落ちなければならないのではないか? 米国に限定してもとんでもない話だ。米国大学の多数を占める州立大とコミュニティ カレッジでは(具体的な選抜業務は大学所属の入学査定官が遂行するが)選抜方式の骨組みは大学と地方政府,市民社会が参加する委員会が決める。結局、韓国大学のオウムのような主張はソウル大より高い評価を受けている米国の多くの州立大らの競争力がどこから出てくるのかも説明できない。
もちろん米国でも私立大は学生選抜が自律的だ。オウムたちはこれがうらやましい様子だが、外国語高校生の修能・トーフル成績をそこまで偏愛するのを見ると悲しいかな米国名門私立大の‘哲学’は学べそうにない。何よりも米国の大学は学生を成績順で選ばず‘総体的性格’を問い詰める。米国の大学入学査定官らは成績(SAT・APと内申)以外に‘個人的特性’と称される多様な非成績要因を積極的に反映する。 そうするうちに選抜基準が‘成績順から大きく抜け出すことになって学生たちは自然に勉強以外に芸体能力・奉仕・各種団体活動などに熱心になる。韓国のように一時しのぎ水準では決してない。最近のある研究では、米国で名門大に進学する学生たちが高校時代に勉強とその他活動に使う時間比率は50対50程度だという。韓国はおそらく100対0に近いだろう。
オウムたちがともすれば本試験云々するのも笑わせる話だ。米国のどの大学で本試験や論述考査を行うのか? 米国修能(SAT)に‘エッセイ’があったりするが韓国の論述考査に比べて難易度と分量が大きく及ばない基本作文能力テストだけのことだ。韓国の論述成績に該当する機能をするのは驚くべきことに米国の内申成績だ。学校授業が注入式から抜け出した探求型・討論型であることに加え、日常的に要求されている宿題がエッセイを書くことで、試験問題が論述型であるためだ。大学入試で内申成績が他の成績(SAT・AP)に匹敵する重要度を持つが、学校教育がこのような形であると韓国と違い内申成績を作る塾がない。オウムたちが本当に米国式教育を望むならば、本試験云々して国民を脅迫するのではなく中高校での学校教育と修能制度を米国式に改革しようと主張してこそ正しい。
事実、私たちに切実に必要な制度は米国式よりはヨーロッパ式であろう。入試地獄だけでなく授業料問題まで同時に解決できる方法であるからだ。だが米国式制度にしても、本当に米国のようにするならば少なくとも今よりは良くなるだろう。だが韓国の大学のオウムたちは米国式制度を糊塗する。なぜそうなのか? オウムたちは概して米国留学派だが、米国で大学院を出てきただけで中高等学校や大学(学部)入学過程を経験できなかったからだ。それで自分たちが追求するのが米国式ではなく正確には日本式だということを悟ることができないのだ。米国教育の特性はオウムたちでなく早期留学した幼い学生たちの証言を通じて韓国に伝えられている実情だ。
韓国の大学のオウムたちは‘自律’自体が哲学だと勘違いしているようだ。だが自律が`好きなように’を意味するならば、それが哲学の地位を得るわけがない。米国アイビーリーグ大学があそこまで強調する‘機会’や‘多様性’,‘献身性’等に並ぶ韓国名門大の哲学が何かを訊ねたい。
イ・ボム教育評論家