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仁川大公園 白凡銅像 寂しい光復節

原文入力:2009-08-13午後08:55:15
訪れる人も少なく‘放置’水準…支援不足で追悼行事も困難
“獄中苦を経験した刑務所周辺など、意味ある所への移転”意見も

キム・ヨンファン記者

←仁川大公園にある白凡銅像(左側)と母堂のクァク・ナグォン女史の銅像(右側).

白凡金九先生の崇高な精神を知らせようと仁川大公園に建てられた銅像が接近性が落ちる上に追悼行事さえきちんと知らせられず残念な思いをしている。特に今年は白凡逝去60年目の年なので寂しさは一層だ。

現在、白凡銅像は仁川都心外郭の仁川大公園南側の人影少ないところに位置している。公園を訪ねてきた市民でさえ白凡銅像が公園内にあることを知らない場合が多い。このために歴史性と接近性などを考慮し先生が獄中苦を体験した自由公園や近隣の月尾島に移そうという話が出てきている。しかし自由公園にはマッカーサー銅像が、月尾島には展望台があり移すことも容易でない。最近では接近性が良い松島国際都市が論議されもした。

銅像設立推進委員会事務局長として活動したパク・ヨンボク京仁日報仁川本社社長は「銅像建立当時、仁川大公園は人々がたくさん訪れないという指摘があり、月尾島がさらに相応しいという意見も多かった」と話した。光復会仁川支部側は「先生が獄中生活をした場所に銅像を移転し公園を作るならば、意味が大きく反対する理由がない」としつつも「市民の意見や費用問題があるので慎重に検討しなければならない」と話した。

白凡銅像は1997年10月、仁川市民たちが集めた寄付金7億ウォンで仁川市,南洞区,長寿洞の仁川大公園の白凡公園内に作られた。また金九先生の銅像の左側10m後には白凡の母堂クァク・ナグォン女史の銅像も立てられた。韓服姿に右手に器を抱いたクァク女史の銅像は1948年直接白凡の監修を受けて製作されたと伝えられる。白凡が仁川監獄に閉じ込められている時、クァク女史が食事を準備し刑務所に持っていく姿を再現したものだ。クァク女史の銅像はソウル,孝昌公園の金九先生記念館内にあったものをここに移してきた。

毎年白凡の忌日である6月26日に開かれる追悼行事もお粗末この上ない。キム・ウヨン光復会仁川支部事務局長は「先生の忌日頃だけでも言論で白凡に光を当てるプログラムを報道すれば良いのだが」として「白凡追悼行事でなく光復会行事のようにお粗末に開かれている」と話した。金九先生追悼行事は毎年忌日に先生の銅像が立っている仁川大公園で光復会仁川支部主管で開かれる。今年も逝去60周年をむかえ仁川市長と市・区議会幹部,光復会員などが参加して開かれた。

白凡先生は1896年21才の時、黄海道で明成王后の怨みを晴らすために日本人,土田を殺害した疑惑,1911年36才の時には独立運動を行った疑惑で各々逮捕され、仁川刑務所で2回監獄の苦しみを体験した。最初閉じ込められた時は死刑の宣告を受けたが減刑され、2回目には鎖に縛られたまま仁川港築造工事に動員されたりもしたと分かった。

キム・ヨンファン記者ywkim@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/area/371138.html 訳J.S