本文に移動

[ルポ]朝鮮人のルーツを持つ日本人の自分探しの旅(2)

登録:2015-10-17 03:33 修正:2015-10-18 16:36

 雄貴氏には在日朝鮮人の友人がいた。翌日、彼に「俺って在日なのかな」と尋ねた。彼の答えは驚くべきものだった。「間違いなくそうだと思うよ?名字が平山だからね。おそらく韓国では名字が申(シン)だと思う」。在日朝鮮人たちは雄貴氏のように韓国の故郷の地名を日本語の漢字に置き換えて名字を作ったり、韓国の名字の漢字の字画を分解し、似たような日本語の漢字を名字にしてきた。平山(ピョンサン)申氏は、通常、平山という名字を使っていたという。日本では、名字の数が11万を超えており、一般の人々はそれが在日朝鮮人のものなのかどうか、区別するのは難しいが、在日朝鮮人同士は名字を聞くだけでも、ある程度気付くことができるという。

 雄貴氏は除籍謄本を取り寄せて調べることにした。 3カ月後に書類が自宅に到着した。雄貴氏が3歳までは外国人だったが、日本に帰化申請が認められた記録が残っていた。両親もこの時一緒に日本国籍を取得した。彼はすぐに母親が住んでいる大阪に向かった。母親は家で雄貴氏が好きな「お好み焼き」を作っていた。母親に除籍謄本を突き付けた。「お母さん、これでも俺が日本の人なの?」

 母親がフライ返しでフライパンを叩き落としながら冷たく答えた。「あなたに名前と国籍だけですべてが決まるその気持ちが分かる?」。母親は料理を止め、酒を取り出して飲み始めた。雄貴氏はこの日、母親が酒を飲む姿を初めて見た。

 「私が初めて肉を食べたのが13歳頃だったのかな。お母さんは大阪のひどく貧しい家で生まれたの。リヤカーを引いて金属くずを拾い、古物商に売って生活していた。朝鮮人はほとんどそうだったよ。朝鮮学校に通う生徒は襲撃されたりもした。日本国籍を取りたかったけど、そうしたら、朝鮮人社会でいじめられるから、慎重にやらなければならかった。あなたのお父さんも朝鮮人だった。私たちは結婚してから一緒に日本に帰化するのに成功した。弁護士費用が本当に高かったよ。帰化が許可された日、私たちは一生子供を日本人として育てることに決めたの」

 後に分かったことだが、母親は流行りの韓流ドラマを日本語字幕なしで見られる人だった。子供の頃は朝鮮学校にも通っていた。お隣さんと一緒に韓流ドラマを見る時、怪しまれないように時々朝鮮人に対する差別発言を口にしなければならなかった母親の境遇も理解できるようになった。母親は雄貴氏が子供の頃、誕生日を祝うために作ったワカメのスープを食べなくて悲しかった話やキムチをおいしく食べてくれて嬉しかった話を打ち明けてくれた。雄貴氏はその告白を聞いて泣いた。ただ驚いた。

 雄貴氏の父親は10年前(2005年9月15日)自ら命を絶った。理由はよくわからない。1999年、雄貴氏の母親と離婚してから、一人の生活が孤独だったのだろうか。雄貴氏の祖父は、父親が13歳だった1960年に亡くなった。父は八百屋をしながら、弟と妹の世話をして祖母を支えた。結婚後には7人兄弟を生んで育てた。雄貴氏はこの3年間、外務省と韓国大使館などに通いながら、資料を収集した。祖父と祖母の本籍は済州市翰林邑帰徳里だった。1932年、祖父のシン・ソクチュンさんは25歳の時に溶接工として、日本上陸の許可を受けた事実も分かった。祖父は日本に来る前、済州で前妻との間に4兄妹(1男3女)を設けていたことが明らかになった。前妻が死んでから日本で再婚し、雄貴氏の父親は後妻との間で生まれた。だから雄貴氏の父親の異母兄弟が4人もいたのだ。

日本京都の朝鮮人村ウトロ。ここも徴用で連行された在日朝鮮人を強制的に収容したところだった。日本の朝鮮人“ゲットー”で貧困はしばしば受け継がれた=リュ・ウジョン記者//ハンギョレ新聞社

■叔母の写真を持って済州をさまよう

 彼は16歳の時、1997年の秋、あるお婆さんが自分の家を突然訪ねてきたことがあった。母に聞いてみると、その人は叔母(父の異母姉妹、現在77歳)だった。「父は彼女が誰なのか、私たちに説明しようともせず、ただ早く帰そうとするだけでした。後でわかったことですが、彼女は異母弟に会うために済州からあちこちを聞いて回って訪ねてきたのでした。父親も、叔母が現れるまでは、済州に異母兄弟がいることを知らなかったようでした」

 雄貴氏は叔母が訪ねてきた日に撮った家族写真を見せてくれた。ぶっきらぼうな顔で立っている父の隣で、叔母は弟と手を繋ぎたかっているように、そっと手を伸ばしていた。しかし、父は叔母の手を取らなかった。写真の中では気まずい雰囲気が流れていた。

 「雄貴氏の祖父は解放後、どのような理由で済州に帰らなかっただろうか。自分の家はどのような事情があったのだろう。もしかして韓国現代史の悲劇に巻き込まれたのではなかろうか」。雄貴氏は、このすべてが気になった。彼はコツコツと飛行機のチケット代を貯めた。済州に行って直接親戚を探してみることにした。叔母が生きていれば、すべての秘密の鍵を開けることができると思った。叔母の連絡先はわからないが、祖父の本籍住所地に行けば、何かわかるかもしれない。友達のホ・ミソン氏が彼の旅行に同行することにした。

 先月30日の夜、雄貴氏とホ・ミソン氏は、済州空港に到着した。翰林邑帰徳里近くの小さなゲストハウスに荷物を解いて、翌日朝早く翰林邑事務所を訪ねた。職員に日本で取得した書類を見せた。しかし、祖父の本籍地となっていた「帰徳里1621番地」は、行政区域の改編で、現在は存在しない住所となっていた。雄貴氏は口をつぐんだ。職員は、親戚が生きているかどうか確認してみると言った。その間に雄貴氏は帰徳里村に行って叔母の写真を持って叔母を捜し回った。数時間後に役場から電話がかかってきた。「叔母に当たる人を見つけました」。雄貴氏は役場に走った。

 「帰徳里ではなく、今は済州市内に居住していますね」

 「今生きておられますって?ああ...!」

 雄貴氏の大きな目に涙があふれた。彼は住所地を受け取ってすぐ済州市に向かった。済州の空に立ち込めた雨雲が今にも海を飲み込むように、真っ黒な巨体を風の中で震わせていた。黙って窓の空を眺めていた雄貴氏が言った。「ついに本当の私を見つけられますかね?」(来週に続く)

東京、済州/ホ・ジェヒョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力: 2015-10-16 20:13

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/713226.html 訳H.J

関連記事