30代半ばの日本人青年がしばらく前に自分が「朝鮮人のルーツ」を持っていることを知りました。両親は息子が日本社会で差別されないように、この事実を隠してきました。父親が自分の家に関するいかなる記録も残さず亡くなったため、青年は直接自分のルーツを探す旅に出ました。彼は韓国でどのような道のりを経験するのでしょうか。日本社会で「在日朝鮮人」は何を意味するのでしょうか。平山雄貴氏の旅行に同行しました。
「本人の顔と事情が知られたら、日本でどのような目にあうかわかりません。それでも、報道しても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫です。それはすでに覚悟ができています」
平山雄貴氏(34)に初めて会ったのは、先月18日の夕方、東京都心の新宿の居酒屋だった。職場の同僚であり、韓国語の通訳をしてくれるホ・ミソン氏(39)も一緒だった。雄貴氏は大阪で生まれ育った日本人だ。彼は約3年前、偶然、彼のルーツが実は朝鮮にあることを知った。祖父は日本植民地時代に済州島から日本に渡った人だった。祖父と父親が共に他界しており、正確な事情はわからない。雄貴氏は自分の家について詳細に知りたがっていた。すぐに済州島に渡り親戚を探し回る予定だと言っていた。彼はこの過程を記録したいと思っているようだった。
■在日朝鮮人6世まで出てくる時代
「私は日本人です。韓日ワールドカップの時も日本が勝つように応援していたし、それが私の当然の姿でしょう。しかし、私のルーツが朝鮮ということを知った以上、それを隠して生きる理由もありませんよね。私の祖父はどんな人だったのか、なぜ日本に来たのか、何を経験したのか、すべてを知りたいと思います。もし私のような人の事情が知られたら、私のように朝鮮がルーツであることを知らずに生きている他の『在日』(日本の植民地支配の結果など、様々な理由で日本に滞在している朝鮮人や韓国系永住者など)が自分を受け入れるのに、前向きになるのではないしょうか? 」
理路整然で迷いのないゆうき氏の答えからは、長い間自分のアイデンティティについて悩んできた痕跡が見られた。彼は3年以上も自分のルーツについて悩んだ。彼は最後の勇気を絞って答えを見つけようとしていた。雄貴氏は在日朝鮮人3世だ。彼はかならず自分のようにアイデンティティの混乱にぶつかる人たちが他にもいるはずだと言った。最近は、在日朝鮮人6世まで生まれている。
居酒屋に入る前は霧雨が降っていたのに、話を終えて出てくると晴れていた。ゆうき氏は平和運動団体「ピースボート」の職員だ。丁度その日、日本の与党が平和憲法を無力化する安全保障法案の国会通過を強行しようとした。雄貴氏は友人であるホ・ミソン氏と共に国会前まで行ってデモに参加し、真夜中に帰宅した。彼らとは30日、済州で再び会う約束をした。別れる時、雄貴氏の後ろ姿を見た。普通の日本人よりも背も高く、大柄だった。
現在、日本には60万人の在日同胞が住んでいると推定される。ほとんどが日本の帝植民地時代に日本に渡った人たちとその子孫だ。朝鮮人の日本行きは1920年から本格化した。1940年代初頭には200万人以上の朝鮮人が大阪や京都、東京などの大都市周辺に部落を成していた。ほとんどが朝鮮半島南部と済州地域からきた肉体労働者たちだった。自発的な移住者もいたが、日中戦争勃発後の1939年から1945年の間に、軍需産業に不足した労働力を埋めるために、強制移住された人たちが多かった。1945年の解放後、在日朝鮮人は大挙本国に帰国し、滞留者が60万人規模に縮小した以降、現在に至っている。一部は、済州4・3事件と韓国戦争などで発生した社会的対立から逃れるように、解放以後、日本に渡った。
在日同胞の国籍は複雑だ。在日同胞は大きく、朝鮮籍保有者、韓国国籍所持者、日本国籍所持者の三つの部類に分けられる。韓国国籍所持者は、韓国国民と同じような意味だ。朝鮮籍保有者は、過去、朝鮮民族の一員であることを意味する。国籍というより民族的な帰属を示す記号だ。亡国朝鮮の子孫であることを自任する理由は、南北の分断を認めず、かといって祖国を侵略した日本国民になることも拒否するという意志の産物だ。彼らは特別永住権を与えられ、日本で暮らしているが、参政権など様々な面で厳しい意社会的な制約を受けている。日本国籍所持者は、日本に帰化した人のことをいう。1990年代に入って韓国国籍が朝鮮籍より多くなり、日本>韓国>朝鮮(国)籍の順で在日同胞の割合が定着し始めた。
在日朝鮮人は、単に在日同胞を指す言葉ではない。朝鮮籍や日本籍、韓国籍にかかわらず、民族性を維持して生きていこうという在日同胞全体を総称する一種の社会政治的含意が込められた用語だ。 「在日朝鮮人」が「朝鮮人」と呼ばれ、あらゆる蔑視と共に生きていることは周知の事実だ。朝鮮学校(親北朝鮮性向の在日本朝鮮人総連合会が運営する在日同胞の学校。ただし、韓国籍や北朝鮮籍、朝鮮籍の在日同胞の子どもたちが一緒に通う)に通う生徒は制服で主に韓服を着るため、同じ年頃の日本人学生たちにからかわれたり、絡まれることも少なくない。 2010年、日本の文部科学省が外国人学校を含む日本国内のすべての高校で無償教育を始めたが、朝鮮人学校は依然としてその対象から排除されている。
雄貴氏は自分を日本人だと思って育った。韓国語はまったく分からず、同年代の日本の若者たちのように韓国という国に興味がなかった。「日本軍慰安婦」問題が時々マスコミに出てくるため、「考えるだけで頭が痛くなる国」という程度が韓国に対するイメージだった。
自分を日本人だと思って育った
平山雄貴氏は自分のルーツを
後になって気づき、母親を問い詰め
両親が帰化したという告白を受けた
彼はより多くの事実を知りたい思いで
3年間外務省に通って資料を収集し
祖父の本籍が済州ということと
知らなかったいくつかの家族関係も調べた
遂に済州行きの飛行機に乗った
親戚を探しに役場を訪れた
■母は言った、「あなたにその気持ち分かる?」
在日朝鮮人に対する差別を目撃する瞬間も、彼は日本人だった。両親は、ただ一度も彼に家のルーツを説明してくれなかった。かえって雄貴氏が父親(平山ひろし、1947年生まれ)から聞いたのは在日朝鮮人に対する差別発言だった。 「父は私が勉強をしたがらないと「この『朝鮮人みたいな奴』という意味の差別用語を聞かされました。その時は、それが何を意味するのか正確にわかりませんでしたが、誰かを卑下する言葉というのは分かりました」。雄貴氏は父が意図的に朝鮮人に対する差別用語を使って、自分を叱ったと思っている。
雄貴氏が在日朝鮮人であることを初めて知ったのは、2012年2月、いとことの会話からだった。雄貴氏は大阪から東京に遊びに来たいとこに都内を案内した。新宿近くの韓国人密集地域である「新大久保街」でトッポッキを買って食べた。雄貴氏はただ東京にも大阪の「鶴橋」のように韓国人村があることを見せたいだけだった。ところが、いとこの表情が変だった。
「おい、お前知らないの?」
「何を?」
「俺の家、結構複雑だよ。俺、掃除していたら、お母さんの外国人登録証が出てきた」
いとこの家は、在日朝鮮人の家庭だった。雄貴氏はいとこが朝鮮人なら、もしかしたら、自分の家もそうではないかと疑った。そういえば祖母が以前、キムチという食べ物を作ったことがあった。雄貴氏はそれが日本の食べ物だと思い込んでいたが、実は韓国の食べ物だった。雄貴氏は母親(64)に直接携帯でメッセージを送った。「お母さん、俺さ、何人?」母はすぐに返事を送ってきた。 「日本人。ところで、本当に知りたくて訊いているわけ?」
雄貴氏は母親の言葉を信じなかった。叔母に電話をかけた。叔母は長いため息をついた。「とうとうその時が来たのかな?あなたのお母さんに私が言ったと言わないでよ。実は、あなたの家も在日朝鮮人の家庭なんだ。あなたの両親はそれを子供たちに知られたくないと思っているの」。雄貴氏は母に再びメッセージを送ったが、母の答えは同じだった。「日本人だよ」
(2に続く)
韓国語原文入力: 2015-10-16 20:13