決定的物証の「キム・ギソル手帳」ねつ造と主張し、証人宅を訪れた記者も連行
恥辱と苦痛の24年がもたらした肝臓がん...検察も裁判所も慰めの言葉は一切なし
大法院無罪判決のあった日、姿を消したカン・ギフンはどこで何を考えたのだろうか
「カトク」の通知音が鳴ったので、カカオトークのメッセージを確認してみたら、友人から一枚の写真が送られていた(写真上)。「24年前、う~ん」といううめき声と一緒に。誰かのフェースブックに掲載されていた写真を共有したそうだ。真ん中がカン・ギフンで一番左の角縁メガネをかけている人が筆者だ。カン・ギフンが「遺書代筆」濡れ衣を着せられ、明洞(ミョンドン)聖堂で座り込みをしながら、記者会見を行う姿だ。記憶は定かではないが、おそらく遺書の筆跡と自分の筆跡が異なることを証明するために、記者たちの前で遺書と同じ内容を書いて見せている様子だと思われる。駆け出しの記者のくせに、私はその横で何か熱心に取材をしている。
写真の中の自分の姿がどうも見慣れない。今の私は髪がかなり薄くなり、ポッコリお腹になってしまったが、28歳の私は「それなりにいけてる」と思った。ところが、写真の中のカン・ギフン氏を見た瞬間、私の“老化”を語るのがどれほど贅沢なことかが分かり、急に恥ずかしくなった。写真の中の彼の姿は、若いというより、あどけなく見えるほどだ。当時、彼を見て、端正で整った顔立ちの青年だと思っていた。ところが、濡れ衣を着せられたまま過ごした恥辱と苦痛の24年間が彼の端正な姿を壊してしまった(写真下)。
いつかコラムにも書いたが、3年くらい前にカン・ギフンが闘病中と聞いてお見舞いに行ったことがある。彼が入院している病室をしばらく見回しても、彼の姿は見当たらなかった。カン・ギフンが先にあいさつをしてくれて、ようやく彼だということが分かった。私が覚えているのは白い顔にすらりと背が高い姿だったが、黒ずんだ顔色で前かがみになって立っていた。目は窪み、目の下のクマは濃かった。
カン・ギフンは病を患っていた。肝臓がんだ。無念を晴らせない悔しさ、心労で両親を失った自責の念、経済的困窮が彼の体を蝕んだ。定期検診をちゃんと受けていたら早期に発見できたはずだが、工事現場で肉体労働を転々としていた彼の不安定な生活は、そのような贅沢を許さなかった。その時、彼は「21年前のあの事件以来、私には一度も良かったことがない。特にその事件が起きた5月になると、心身ともに痛む」と残念がっていた。カン・ギフンの病気を知っているある医師は、「ストレスが免疫力を弱め、それ病気を悪化させた」と話した。
「私の記事を書かないでくれ」
週末にカン・ギフンに電話をかけてみた。なかなかつながらなかったが、3、4回電話をしたら、やっと電話に出てくれた。「私は記者の電話は受けないことにしているけど...」。ところが、いざ電話がつながると、あまり訊きたいことが浮かばない。やっと訊いたのが「木曜日、大法院(最高裁判所)の判決の日、なぜ出なかったの?」だった。 「なんとなく、付添人になりたくなくてさ...」。返ってくる答えも短い。しばらく沈黙が続いた。「体の具合はどう?」そんなことをいくつか訊いてから電話を切った。彼に記事を書かないでくれと頼まれたが、実際伝えるようなこともあまりない。
24年ぶりに正義が実現されたと?真実は必ず勝利すると?一体それで何変わったのかと思ってしまう。約1年前の2014年2月、ソウル高裁で無罪が宣告された時は、カン ・ギフンは記者会見を開いた。そして堂々と要求した。「当時の検事たちは、私の事件を覚えているだろう」とし「彼らがどのような方法であれ、遺憾を示してほしい」と述べた。しかし、返ってきた答えは、検察が再び大法院に上告することだった。 「検察は、カン・ギフンが死ぬのを待っているのではないか」と思うと、怒りが込み上げてきた。大法院の確定判決が出てからも検事たちに反省の気配はない。当時カン・ギフン捜査チームの一員であったナム・ギチュン弁護士は京郷新聞との電話インタビューで「謝罪するようなことではないと思う」と語った。彼は、「現在の物差しでずっと昔に行った判決を再び行うと結論が変わるだろう」とし「朝鮮時代の世宗大王がした判決も今の基準に照らすと結論が変わることが多いだろう」と話した。
裁判所も同じだ。2009年、ソウル高裁が再審開始決定を初めて下しから、大法院が最終再審開始を決定したのは、なんと3年以上も過ぎた2012年10月だった。 2014年2月ソウル高裁で無罪が宣告された後、大法院は再び1年3カ月が過ぎてから最終的な宣告を下した。何を書くのにそのように時間がかかったのだろうか。判決文を読み込んでみたが、高等裁判所の判決文を要約したレベルだった。カン・ギフンに一言の謝罪や慰めの言葉もなかった。カン・ギフンの無実を示す数多くの証拠に押されて、仕方なく無罪を宣告するというような態度だ。
一部のメディアはもっとひどい。朝鮮日報は社説で「国立科学捜査院の筆跡鑑定をどのように捉えるのかに対する裁判官の主観的判断が変わったことで、従来とは正反対の判決が出た。証拠の信憑性についての判断は、裁判部ごとに異なる。真実はカン氏本人だけが知っている」と記した。真実はカン・ギフンだけが知っているなんて、一体何が言いたいのか。これまで声高く「法治」を叫んできた朝鮮日報が、大法院の判決さえ認められないという話なのか。人生が台無しになった一人の人間に対して、いや、一人の人生を台無しにするのに一役買ったメディアとして、最低限の礼も尽くせないのか。こんな雰囲気だから、カン・ギフンはおそらく怒る気力さえも失ってしまったのだろう。大法院の判決が出る日、彼は行方を晦ました。これまで続いた恥辱を再び味わいたくなかったのだろう。「ただの付添人になりたくなくてさ...」という言葉を、私はそう受け止めた。彼は4日が過ぎた18日になってようやく短い声明を発表することで自分の立場を示した。
カン・ギフンとの縁は、ちょうど24年前の今日の5月18日から始まった。その日は、デモ途中警察の鉄パイプに倒れて死亡したカン・ギョンデ氏の葬儀があった。葬列に沿って取材をしていたら、ポケットベルが鳴った。なにがなんでもカン・ギフンを見つけて新聞社に連れてこいという指示だった。丁度群衆の中にいるカン・ギフンが目に入り、彼の手首を引いて会社の車に乗せた。会社の先輩記者にいきなり飛び降り自殺したキム・ギソル氏の遺書を見せられたカン・ギフンは、言われるがまま同じ内容を書いてみせた。その当時、私たちは事態の重大さに気づいていなかった。「え〜、全く違うじゃないか」と遺書代筆を報じた夕刊新聞の記者が「過度に想像力を動員して記事を書いたに違いない」と結論づけた。
それから、私はカン・ギフン担当になった。キム・ギソル氏の筆跡を集め、これを私設の鑑定者に依頼してカン・ギフンの悔しさを晴らそうとした。そしてキム・ギソル氏の新しい筆跡が出てくる度に、「今度は検察が捜査を終了させるだろう」と期待を寄せた。しかし、毎回挫折を味わった。検察はどのような証拠が発見されても、すべてねつ造だと主張した。特にキム・ギソル氏が使っていた全民連手帳が発見された時がそうだった。手帳は、誰が見ても遺書と同じ筆跡だった。その手帳を検察に渡す時、私はイ・ソクテ弁護士(現年セウォル号特別調査委員会委員長)と同じ車に乗って検察庁に向かった。車の中でイ・ソクテ弁護士が 「これで全部終わった」と安堵していた顔が記憶に新しい。そして手帳を渡されたシン・サンギュ検事が当惑の色を隠せなかったことも忘れられない。ところが、数日後、検察が「手帳のミシン目が合わない」とし、その手帳さえカン・ギフンが急いでねつ造したものだと強弁した。状況は振り出しに戻った。
キム・ギソル氏のガールフレンドであるホン氏に会うため、城南(ソンナム)市内をくまなく探し回ったこともある。ホン氏は、当時事件の行方を決める重要な証人だったが、検察がホン氏を連れ去り、城南に住むピョ氏の家に匿っているとの情報提供があった。「キム、イ、パクでもなく、名字がピョなら、珍しいし、探し当てられるかも」と思った。城南の役場は全部回り、名字がピョシである家を一つひとつ確認して行った。足が棒になりそうな時だったが、表札にピョと書かれていたある家に入ろうとする瞬間、がっしりした体格の刑事が現れ、私に前に立ちはだかった。そして、いきなり「この周辺に強姦事件が発生したが、その容疑者と似ているから警察署まで同行してくれ」と、私を強制的に連行しようとした。途中で警察署を飛び出しピョ家に全力疾走したが、警察より足が遅かったため、再び捕まり、連れていかれたこともあった。その日の夕方、検察は自分たちがホン氏の身辺を保護中だったことは認めたが、ホン氏は既に別の場所に移された後だった。
「上告棄却、その一言を聞くために24年間を...」
昔のことはすべて苦い記憶として残っている。取材記者である私がそうなのに、カン・ギフン本人と彼が所属していた全民連の人々の心境はどのようなものだったのろうか。今月14日、大法院の最終宣告が下された日、法廷に行ってみた。イ・チャンボク、イ・ブヨンなど、当時全民連を率いていた元老たちをはじめ、当時の全民連の実務者たちの姿が目立った。どんなに待っていた判決なのだろうか。しかし、あまりにもあっけなかった。大法院判事が「事件番号2014ド2946被告カン・ギフン、検察の上告を棄却する」と朗読したのが全部だった。皆静かに法廷を出て、握手を交わしながらも「あの一言を聞くために24年を待っていたのか」と虚しさを噛みしめていた。
それから、少し早い昼食を一緒に取ったのだが、皆マッコリにすぐ手が伸びた。カン・ギフンにまつわる話をあてに、マッコリを進めては飲み干した。キム・ギソル氏が遺書に「今後すべてのことはキム・ソンテク氏とソ・ジュンシク氏に一任する」と書いてあったために、「自殺の黒幕」とされた全民連幹部キム・ソンテク氏は、当時2年半もの間、指名手配され、旅館を転々としながら苦労した話をしてくれた。あまりにも疲れて、警察に捕まりたいと思ったこともあったそうだ。そして今も旅館の臭いが大嫌いで、いくら酒を飲んで遅くなっても、必ずタクシーに乗って家に帰ると、最近は住んでいるところが忠清道で、一昨日はタクシーだけで10万ウォン(約1万1千円)以上出たという。お酒が酌み交わされているうち、ついに泣き声が聞こえてきた。カン・ギフンの妹だった。「兄が元気になれるなら...私のすべてを差し出すつもりです。お兄さん〜」。みんな粛然とした。カン・ギフンの妹は弁護士となり、今では全羅北道教育庁の人権擁護官として働いているという。
昔の取材記者の資格でマッコリを何杯か勧められて飲んでいるうちに、酔いが回って来た。脱いであった服に袖を通しながら、先に抜け出したが、足に力が入らず、ふらついてしまった。胃がむかむかして、吐き気さえ感じられた。必ずしもマッコリのせいではないだろうと思った。5月の日差しは気が狂ってしまいそうなぐらい鮮やかだった。
韓国語原文入力: 2015-05-18 10:20