5日午前、マーク・リッパート駐韓米国大使襲撃事件で朝餐講演会場は修羅場に一変した。リッパート大使が座っていた席の白いテーブルクロスと食器には血痕が飛んでいた。 ナプキンで顔をおおい急いで病院に移動するリッパート大使の血痕は世宗文化会館前の光化門歩道まで続いていた。
この日、民族和解協力汎国民協議会(民和協)が主催した「朝鮮半島平和と統一、そして韓米関係発展方向」の朝食講演をすることにしたリパート大使は午前7時35分頃、世宗文化会館に到着した。 これに先立って午前7時から事前登録と現場登録を通じて入場していた参席者約200人は拍手でリッパート大使を迎えた。
リッパート大使は演壇前の中央のメインテーブルに通訳と民和協共同議長であるチャン・ユンソク セヌリ党議員の間に座った。メインテーブルにはキム・ドクリョン前民和協代表常任議長、イ・ソンホン常任執行委員長、イ・ジュヨン セヌリ党議員、キム・ソンゴン新政治民主連合議員、アン・ヤンオク韓国教員団体総連合会代表など9人が共に座った。
リッパート大使はチャン議員と1月に韓国で生まれたリッパート大使の初めての子息の話を交わしていたという。 チャン議員は「リッパート大使が『二番目の子供も韓国で産みたい』と話し『遠征出産じゃないか』と冗談を言うなど和んだ雰囲気だった」と話した。
リッパート大使が粥を食べようとした瞬間、赤紫色の改良韓服を着てメインテーブルの次の列の左対角線方向6番テーブルに座っていたキム・キジョン氏が突然立ち上がった。彼は「南北対話を遮る戦争訓練を中断せよ」という内容が書かれたA4の印刷物約10枚を付近のテーブルに座っていた参席者に渡した後、リパート大使に駆け寄った。
キム氏は大声で叫びリパート大使を襲ってなぎ倒した後、上体に乗ってあらかじめ準備していた長さ25センチの果物ナイフを振り回した。リッパート大使はチャン議員側に倒れ、チャン議員とメインテーブル後方に座っていた大使館職員、現場に出ていた鍾路(チョンノ)警察署刑事らが駆け寄りキム氏を制圧したという。チャン議員は「キム氏が叫んだという報道があるが、正確には覚えていない。大声を上げ『米国』とか『米軍』のような単語があった」と話した。 大邱(テグ)から来たというある参席者は「リッパート大使が血を大量に流していて恐ろしかった」と当時の状況を伝えた。
リッパート大使は顔をテーブルナプキンで覆い、大使館職員らに囲まれて世宗文化会館の外に抜け出した。リッパート大使は「はやくここを出なければならない。救急車が必要だ。 病院に連れていってほしい」と話し、ちょうど世宗文化会館前を通った警察のパトロールカーに乗って付近の江北サムスン病院に移動し応急治療を受けた。その後、最初の息子を出産した縁のある新村セブランス病院に移動して顔の縫合手術などを受けた。
警察に制圧されたキム氏は現場の床に倒れた状態で「私はテロをしました。なぜこの地で戦争の訓練をするのか? 戦争訓練をすれば我が国の統一は永遠にできません」と大声で叫んだ。この過程でキム氏は右足首が折れ西大門区の赤十字病院で治療を受けた。
民和協が主催したこの日の朝食講演会は先月16日、民和協ホームページと会員電子メール等を通して公示された。 ホームページを通じて事前登録申請をしたり、この日午前に現場で当日登録した人々は特別な検問を受けずに講演会に参加できた。 警察は「米大使館の要請がなく、別に検問などはしなかった」と話した。 キム氏が講演会場に入る時、現場に出ていた鍾路署外事課の刑事がキム氏を調べ「あの人は招待されているのか」と民和協側に問い合わせたが、特別な措置はなかった。キム氏も民和協が提供した名札を胸に付けていたという。60代の参席者は「改良韓服を着た人が手書きの名札をつけていたのでいぶかしいと思った」と話した。キム・ヨンマン民和協広報委員長は「キム氏は事前登録も現場登録もしておらず、民和協の会員でもなかった。警護対策が不十分だった点について、もう一度謝罪申し上げる」と話した。ホン・サドック民和協常任議長はこの日辞意を表明した。