その日、双龍(サンヨン)自動車平沢(ピョンテク)工場の塗装工場の屋上で、彼は警察に取り囲まれていやというほど殴られた。 2回気を失った彼は警察に連行された。気がつくと、安城(アンソン)警察署に向かう護送車の中にいた。 翌日の2009年8月6日、76日間のストライキは終わったが、下半身がマヒした一人の解雇労働者の人生もそこで止まった。 拘束と釈放、そして4~5回の自殺未遂と別の5回の解雇の末に溶接工として生き残った彼は、今でも月に1、2回は刺すような痛みに苦しんでいると語った。
双龍自動車労組が会社側から通知された「2646人(労働者総数は7135人)整理解雇」に対抗してストライキで立ち上がったのは2009年5月21日だった。今月11日には「死ぬほどの苦痛」だった解雇の痛みも2000日目を迎える。 20代で工場に入って“骨身にこたえる労働”を続け、30代後半を地獄のようなストライキ現場で過ごし、歳の割に老けて見える40代になり、京畿道華城(ファソン)のある工場で溶接工として働く双龍自動車解雇労働者チェ・ソングク氏(44)に9日会った。
「くやしかった。早退や病休で会社を休んでも良い考課点を受け取って生き残った人もいるのに、病気でも一度も病院に行かずに365日働いた私は解雇された」。会社を外国業者に売却しようとして経営難を膨らませ、邪魔者だった労組をなくそうとしているという話が出回った2009年5月、平凡な組合員だった彼は15年通った工場に首を切られた。
ストライキ75日目の8月5日朝7時40分頃、彼は「来るべきものが来た」と予感した。明け方から工場の上を飛び回っていた警察のヘリコプターが催涙液をふりまき、外注のガードマンと警察が鎮圧に乗り出した。 組立3チームの後輩たちを逃避させた時に警察のこん棒に殴られ、倒れた彼には足蹴りと木刀の乱打が浴びせられた。
その翌日にストライキは終わったが、彼の下半身は麻痺していた。 それが“恐ろしい苦痛”の始まりだった。 病院治療中の2009年10月7日、患者服姿の彼は特殊公務執行妨害罪で拘束された。 妻は「治療が済んでから拘束してください」と警察署の前で泣き叫んだ。
平沢拘置所に収監された後、彼は這ってトイレに行き、パキスタン人移住労働者の背中に背負われて運動時間に陽の光を浴びもした。 同年12月4日、懲役2年執行猶予3年を宣告されて解放された彼は、病院を探して全国を巡った。しかし、パニック障害などを理由に神経安定剤を処方されただけだった。マヒの原因は分からないが、さらに深刻になれば死ぬこともありうるという説明が返ってきた。
かろうじて用意した13坪の小さなアパートも病気の費用を払うために失い、妻は生活戦線に出た。 背が高く運動好きで均整が取れたチェ氏は、解雇以後、徐々に崩れて行った。 明け方に病室を巡回に来た看護師に駆け寄ったこともあった。「夜明けに工場に押しかけて来た警官と外注ガードマンのチンピラだと思って…」と話した。何日分かの神経安定剤を貯めて一気に飲み、病院のトイレで倒れているところを発見されたことも4~5回。 飛び降りようと病院の屋上に上がったこともあった。 結局、彼は治療を放棄して家に戻った。
「居間の壁にもたれていると、子供たちと家内の下着に穴が空いているのが見えました。 買うこともできない、本当に気が狂いそうでした…」。そんな2011年2月、同僚から連絡がきた。 「○兄貴が死んだ」。一歳年上の○さんとは工場で夜勤を終えてから焼酎の杯を傾けた仲だった。 口数は少なかったが多感だった○さんは、ストライキ後に妻が自殺すると通帳残高4万ウォンを残して命を絶った。
「兄貴の死は自分が死んだのと同じように思える」と言い、彼は3日続けて葬儀場で泣きながら酒を飲んだ。 2011年当時亡くなった解雇労働者と家族だけでも14人に達した。「あー、こうやって家族も壊れるんだな」と絶望した彼に、幼い娘(7)と息子(9)が近づいた。「パパ頑張ってください。体を大切にしてね」。幼い娘がチェ氏の涙を拭い、彼は気を取り直してリハビリを始めた。
再び体を動かせるようになった後、就業戦線に乗り出したが世間の風は冷たかった。 防疫機械工場などに就職して3か月仕事をして、正社員になろうとして入社書類を出すたびに返ってきた。 若い働き手が欲しくて歓迎してくれた会社も“双龍自動車解雇者”ということが分かると決まって背を向けた。「申し訳ありませんね」「もういいです」「出勤しないでください」…。 チェ氏は「悪口を言われなかったことだけでも幸いでしょう」と話した。
それから5年間、政権も変わったが良くなったことは何もない。 李明博(イ・ミョンバク)政権の下で大規模整理解雇がなされ、朴槿恵(パク・クネ)大統領は大統領候補だった時期に国政調査を約束したが“口先”だけだった。 チェ氏は仕事がきつくて人が毛嫌いし、月給が安いために首を切られる可能性が少ない“鉄仕事”(溶接などの仕事)をしている。
2月7日、ソウル高裁が双龍自動車解雇者たちが出した解雇無効確認訴訟で原審を覆し原告勝訴の判決を下したという話を伝え聞いた時、彼は「うれしいというより悲しかった」と打ち明けた。 ストライキが過ちでないというのはありがたいが、「これまでの歳月があまりにも苛酷だったため…」として喉を詰まらせた。
ストライキ以後2000日、満身瘡痍のチェ氏は感慨にふけっている様子だった。「もう一度やろうと言われても、もうストライキはできないと思う。 だが、それでも子供たちを奴隷として生きていかせるわけにはいかない」と話した。
一日10時間の溶接仕事で食いつなぐチェ氏の復職は、今は家族みんなの願いでもある。「工場に戻って同僚と楽しく過ごしたい、月給で子供たちに新しいコンピュータも買ってやりたい」。双龍自動車労働者の解雇無効確認訴訟の上告審は今月13日に開かれる。 2000日、6回目の冬、彼の夢は叶えられるのだろうか。