28日午後、ソウル市庁前のソウル広場に市民が吊り下げたセウォル号事故追慕の黄色いリボンを除去するとして「西北青年団再建準備委」という名前の団体が現れた。 この団体の会員約10人は「(西北青年団は)解放直後に共産主義に対抗し、自由大韓民国を守った救国の勇士」であるとし「このような精神を継承して西北青年団の再建を準備している」と紹介した。
実体すら疑わしい彼らが社会的注目を集めるために行う逸脱行動は無視することが上策だ。 だが、大韓民国の首都のど真ん中で“西北青年団(西青)再建宣言”が出てくるとなれば話は別だ。 西青とはどんな団体なのか?
西青は1945年以後に解放された韓国社会で、政治テロの中心にいた。 総理室傘下の済州(チェジュ)4・3事件真相究明および犠牲者名誉回復委員会が2003年に出した「済州4・3事件真相調査報告書」には、西青が済州で犯した種々の残虐行為の事例が含まれている。
<西北青年団出身警察官の虐殺劇はとうてい忘れられません。その日、支署ではいわゆる“逃避者家族”を支署に連行してひどい拷問を加えました。 彼らが銃殺場に引きずられて行く時にはすでに気力が尽きて、まともに歩くこともできない状況になりました。 彼は特攻隊員に彼らを刺せと強要し、自ら刃物を抜いて一人ずつ背中を刺しました。 彼らは眼球が飛び出して倒れて死にました。 その時、約80人が犠牲になりましたが、女の方が多かったんです。 女たちの中には乳児を抱いている人もいました。 彼は乳飲み子が死んだ母親の前でむずかると刃物で赤ん坊を刺し上に突き上げて、威を振るいました。 彼は人間ではありませんでした。>(「済州4・3事件真相調査報告書」271~272ページ)
4・3を体験した済州島の人々にとって、西青は恐怖と戦慄そのものだった。 西青が4・3当時に犯した白色テロと殺傷、婦女子強奪などの残虐行為は、済州の人々の骨の随まで刻まれている。 4・3の発生原因の一つは、西青の済州道民に対するテロ行為であった。 さらに、済州道庁のナンバー2である局長が西青に拷問の末に殺されても西青は処罰を受けなかった。 西青の委員長だったムン・ポンジェさえも、後日「血なまぐさいにおいのする殺戮戦であったので、済州道民の無念な犠牲も多かった」と自認する程に西青の暴力は凄絶を極めた。
1946年11月にソウルで結成された西青は、北側から38度線を越えて来た青年たちが作った極右青年団体だ。 李承晩の後援を受けた西青は当時、在韓米軍さえも「“アカ狩り”に夢中だった」と評価するほどだった。 西青の政治テロは済州のみならず全国的に起きた。 白凡 金九先生を暗殺した安斗煕も西青の会員だった。 自分たちが左派指向と見なした企業家やジャーナリスト、労働者、大学生には無差別的テロを加えた。 彼らは“愛国”と“滅共”を名分に、全国各地で太極旗の押し売りと李承晩写真の販売、強制募金とテロなどを日常的に行った。
セウォル号追慕リボンの除去に乗り出した西北青年団再建準備委は、「遺族たちの顔色を伺ってばかりいるソウル市長と政府に代わり、リボンの除去を決めた」と説明した。 オンライン空間でセウォル号遺族を嘲弄し、断食中の遺族たちの前で“暴食闘争”をした一部極右勢力がついに私的暴力を正当化するファシズムに寄り添う主張まで持ち出したわけだ。 チョ・グク ソウル大学教授は29日ツイッターで「西北青年団は至尊派よりはるかに多い罪無き市民を殺した。 “至尊派再建委”が(犯罪団体組織罪で)当然に処罰されなければならないのと同様に、西北青年団再建委も処罰されなければならない」と主張した。 4・3研究者は「済州での西青の蛮行は決して忘れられないことだ。 彼らは狂気の時代に現れた狂人だった」と話した。 4・3事件の遺族たちは「セウォル号事故に西青を語って現れた彼らが、西青の残酷性を知れば、西青という単語を簡単には口にできないだろう」と怒った。
彼らの行為がいくら少数の突出行動だとしても、西青を再建しようとするならば、それは忘れられつつある悪夢を蘇らせる行為だ。 西青は韓国社会でタブー語にしなければならない。