本文に移動

「国防長官候補者 祖父は実際には日帝協力者」主張提起

登録:2014-06-10 22:55 修正:2014-06-11 06:55
ハン・ミング国防部長官候補者

義兵研究家 イ・テリョン博士 主張
「ハン・ミング候補者の祖父 韓鳳洙(ハン・ボンス)
義兵将として活動したが日帝に自首し
義兵将ムン・テソの逮捕に協力」

 独立有功者として知らされたハン・ミング国防長官候補者の祖父が、実際には旧韓末時に義兵将の逮捕に協力した日帝協力者だという主張が提起され、論議が起きている。

 旧韓末の義兵研究者であるイ・テリョン博士は10日<ハンギョレ>との通話で「ハン候補者の祖父ハン・ボンスが、旧韓末に義兵将活動をしたが日帝に自首した後、義兵長ムン・テソの逮捕に協力し、その功績で日帝の赦免を受けた」と話した。

 彼はこのような主張の根拠として、日帝警察の機密文書を提示した。 1910年3月、内務警務局長が忠北(チュンブク)警察部長宛てに送った高秘收第1817号は「暴徒(義兵)の小首魁ハン・ボンスが当局に赦免を願い出た。 本人は赦免を受ければムン・テソの所在を告げ、これに対し誰何すると言った」と書いてある。 ムン・テソは旧韓末に全北(チョンブク)と忠北(チュンブク)などで日帝と戦い、1911年8月に逮捕され2年後に獄死した義兵将だ。

 ハン・ボンスが実際に日帝のために義兵将ムン・テソの行方を追跡したという記録もあるとイ・テリョン博士は明らかにした。 1910年3月31日、忠清北道(チュンチョンブクド)警察部長が内務警備局保安課長に報告した‘忠北(チュンブク)警秘収第338号の1’は「ハン・ボンスは嶺東警察署長の直接指揮下で行動させたこと…ハン(ボンス)は3月19日嶺東を出発し同軍内と全北道茂朱(ムジュ)・錦山(クムサン)などの各地を捜査して28日夜、嶺東に戻ったがムンの所在は発見できなかった」と明らかにしている。

 ハン・ボンスは同年6月29日、公州地方裁判所清州(チョンジュ)支部で絞首刑の判決を受けたが、日帝が庚戌国恥を迎えて8月29日に断行した大赦免で免訴判決を受けた。 イ・テリョン博士は「当時多くの義兵将が投降形式で自首したが、大赦免を受けることはできなかった。 全国的に免訴判決を受けた義兵将は、ハン・ボンスの他には殆どいなかった」と話した。

 国家報勲処の国家功勳錄にはこのような部分に対する言及がない。 代わりに「ハン・ボンスが1907年、軍隊解散後に義兵将活動を行い逮捕されたが、日帝の大赦免で免訴処分を受け、1919年3・1運動当時に清州(チョンジュ)で万歳デモを行い逮捕され、懲役1年の刑を宣告され獄苦を体験した」として「政府はこのような功績を認め、1963年に建国勲章独立章を追叙した」と明らかにしている。

 ハン・ミング候補者側はイ・テリョン博士の主張と関連して資料を出し「実際、義兵将ムン・テソが逮捕されたのはハン・ボンス義兵将が獄苦を体験した後1年が過ぎた1911年8月」として、ハン・ボンスの自首とムン・テソの逮捕には関係がないと釈明した。 また、ハン・ボンス義兵将記念事業会は「ハン・ボンスは2010年6月29日公州裁判所清州(チョンジュ)支所で絞首刑、京城公訴院で15年の流刑を宣告され獄苦を体験した」として、「ハン・ボンスの自首が日帝に役に立ったとすれば、こういう判決を下すことはありえない」と主張した。 記念事業会はまた「ハン・ボンスは1910年8月28日、日帝が強制併合を断行して獄中にいた多くの独立活動家に赦免措置を下して釈放する時に一緒に解放された」とし「親日の代価として釈放されたと主張するのは悪意的歪曲」と反論した。

パク・ビョンス先任記者 suh@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/politics/defense/641723.html 韓国語原文入力:2014/06/10 20:10
訳J.S(1622字)

関連記事