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[ルポ] 2009年以前の人生が恥ずかしい。これからは私たちが希望になりたい

登録:2014-01-31 01:31 修正:2014-02-02 00:14
龍山惨事の生存者、イ・チュンヨン、チョン・ヨンシン夫婦の物語

ソウル龍山区漢江路2街南一堂の建物はもうない。5人の撤去民と1人の警察官を飲み込んだ焼けた望楼もない。遺族であり生存者であるイ・チュンヨン(左)、チョン・ヨンシンさん夫婦は龍山を離れられずに、真相究明と責任者の処罰を叫んでいる。13日午前「龍山惨事5周忌汎国民追悼週間宣言記者会見」を終えた後、夫婦は今は駐車場と化した南一堂の敷地を囲んでいる目隠し幕に菊の花を挿した。

インタビュー キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr 写真 カン・ジェフン先任記者 khan@hani.co.kr

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▶2003年、イ・チュンヨン(41)さんはチョン・ヨンシン(42)さんを見て一目ぼれしたそうです。イさんはなんと、全羅南道長興(チャンフン)までご飯を食べに行こうと言い、ソウルに戻る途中、真っ暗な道が怖いといって手をつないでほしいと言いました。イさんは、チョンさんの手を握ったまま、すごくゆっくり運転したそうです。 2009年1月20日の“龍山(ヨンサン)惨事”以降、二人を覆った闇はその日の夜よりもっと真っ暗でした。夫婦はその5年間、手をしっかり握りあって今日まで歩いてきました。

2009年1月19日未明、3時、父と息子は起きていた。二人はソウル龍山区(ヨンサング)漢江路(ハンガンロ)2街の南一堂ビルの前に立った。トラックの荷を一つ一つ建物の中に運び込んだ。屋上に上がるや、放水が始まった。息子は激しい放水の中で、望楼を建てた。71歳の父はそばで手伝った。父は息子に言葉一つかけなかった。代わりに、一緒に屋上に上がった30人余りを元気付けながら仕事を仕上げた。 午後5時、望楼が完成した。 「これで、対話しようと言ってくるだろう」と言って喜ぶ人たちの中に父と子がいた。14時間後の翌朝7時頃、父と息子は望楼の4階にいた。望楼に火がついた。息子は窓の外に身を躍らせた。息子は<龍山第4区域商店街・工場撤去民対策委員会>(龍山4区域撤去対策委)委員長イ・チュンヨン(41)氏だった。望楼の周辺にいた人たちは彼が死んだと思った。死ななかった。世を去ったのは父のイ・サンニム(当時71歳)氏だった。父は1年後、冷たい地に埋葬され、息子は4年間を牢獄で送った。

望楼から飛び降りたイ・チュンヨンさんが意識を失って中央(チュンアン)大学病院の集中治療室にいた21日未明、1時頃、妻のチョン・ヨンシン(42)さんは順天郷(スンチョンヒャン)大学病院で舅の遺体と対面していた。葬式を行なったのは355日後だった。しかし、まだ刑務所に懲役5年の刑を言い渡された夫がいた。妻は龍山を離れることができなかった。<龍山惨事真相究明および再開発制度改善委員会>の専従活動家として再びゼロから始めた。

遺族であり生存者として、また、真実究明を要求する活動家として、イ・チュンヨン、チョン・ヨンシン夫妻は初めて一緒に1月20日を迎える。今年の1月20日は、生計対策を要求して龍山第4区域(国際ビル周辺第4区域都市環境整備事業地区)の立ち退き住民など30人余りが南一堂ビルの屋上に望楼を立てて籠城し、警察による鎮圧過程で火災が発生し撤去民5人と警官1人が死亡した“龍山惨事”の5周忌だ。8日、龍山区元暁路(ウォニョロ)1街の<龍山惨事真相究明および再開発制度改善委員会>(真相究明委)の事務室で夫婦に会った。

-望楼の籠城者30人のうち、唯一、父と息子が望楼に上がっていた。

イ・チュンヨン:「私は当時、龍山第4区域撤去対策委員長だったし、父は選択の余地がなかった。父は半年前、龍山第4区域組合の前で生計対策を要求する横断幕をかけようとして撤去班員と争いになった。警察は30代の壮健な撤去班員は無嫌疑処分にし、父だけ事前拘束令状を請求した。龍山第4区域開発問題が解決されて初めて、本人の問題も解決されるという状況だった。」

望楼で最期を迎えた舅
生き残ったが刑務所に入った夫
廃人のような日々の後、気を取り直して
真相究明の専従活動家となった妻
4年ぶりに夫も帰ってきて共に

「警察が望楼の両側を引っ張るや
火柱が下から上がってきた
爆発しそうで外に飛び降りた
太陽のように赤く熱い壁に
顔が溶け落ちるような気がした・・・

死んだと思って布でくるみかけ、心臓の鼓動に・・・

-望楼を作った理由は何か?

イ:「2008年5月30日に管理処分認可が下りた。管理処分認可が下りれば撤去が始まる。対話しようと言っても、戻ってくるのは撤去班員の暴力と冷たい風だけだった。当時まで龍山第4区域に残っていた人たちは、本人や子供が障害者であったり、女手一つで子供を育てたり、無許可の露店という理由で補償も受けられなかったなど、本当に大変な人たちだった。私たちが頼れるのは私たちのような撤去民しかいなかった。黙って追い出されるのが悔しくて、対話して生計対策を立ててほしいと、望楼を作った。」

みな望楼ばかりを記憶している。立ち退き住民たちを望楼へと追いやった時間は忘れられた。公式名称が「国際ビル周辺第4区域都市環境整備事業地区」の龍山第4区域基本計画は2001年7月に立てられた。 住居でなく事業地中心の再開発である「都市環境整備事業地区」に指定・告示されたのが2006年4月だ。組合の再開発計画を確定する「事業施行認可」は2007年の11月に、住民の費用負担が決められる「管理処分認可」は2008年5月に決定された。残る手続きは撤去と工事だけという状況で、龍山第4区域商店街のテナントの主人たちは7月、組合の鑑定評価による営業補償費の通知を受けた。補償は話にならないほど少なかった。イ・チュンヨンさん夫婦が両親と一緒に営んでいた<レアホープ>の補償金は1億500万ウォン。権利金と施設費用が3億以上かかっているビアホールだ。それでもまだ多い方だった。龍山第4区域商店街のテナントの平均補償費は2500万ウォンだった。商店街のオーナー組合員は1人当たりの開発利益が5億4000万ウォンと推算された。場所代である権利金は認められず、生計保障のための代替賃貸店舗は言及すらされなかった。 テナント主人たちの心は急いた。

撤去班員たちの暴力も恐ろしかった。 2007年冬に現れた彼らは、翌年2月からテナントが立ち退いた空き家に住み始めた。施工会社だった三星物産・大林建設・ポスコと撤去作業請負契約を結んだ無許可撤去委託業者2社の職員らだった。 空き家に汚物を積み上げたり、営業中の店に日参して妨害行為を繰り返した。2008年6月30日までに撤去を終えられなければ、1日に1人当たり510万ウォンずつの遅滞補償金を施工会社に支払うことにした撤去請負業者は、住民に強圧的に立ち退きを促した。 立ち退くには生計の目途が立たず、留まるにも撤去班員に脅される状況だが、対話の通路は閉ざされていた。<龍山第4区域立ち退き対策委>は、望楼に突破口を見出そうとした。

-家族たちは心配しなかったか?

チョン・ヨンシン:「望楼が何かも知らなかった。危険な所じゃないと、数日後には私も行き来できる場所だと聞いていた。とにかく、龍山はソウルの中心地だから、望楼建てれば数日内に対話しようと言って来るだろうと言っていた。」

-南一堂ビルでその1日をどのように過ごしたか?

イ:「警察に護衛された撤去班員らが、望楼を建てている私たちに向かって激しい放水を浴びせた。ずぶ濡れになって寒くてたまらないので、交代しながら建てた。望楼が完成すれば、じきに対話が可能になるだろうということで、お祭りムードだった。実際の生活は4階でしていた。 ストーブをつけて、寝袋おいて、ガスバーナーでご飯も炊いて食べた。だが、撤去班員たちがずっと1階で火をたいたり、化学弾を撃って煙が上階に上がるようにするので、息が苦しかった。睡眠もほとんど取れなかった。建物に入った後、間もなく警察が入り口を遮断したので、荷物だけを運び入れて帰ることにしていた人たちまでが閉じ込められた。そのために、一日で飲み水も尽きてしまい、食べる物もコメしかなかった。急いで鎮圧しなくても、長くは持ちこたえられない状況だった。」

-2009年1月20日午前6時30分、警察による鎮圧が開始された。籠城後わずか一日での鎮圧だった。建物内の状況はどうだったか?

イ:「鎮圧前、南一堂ビルの前の漢江大路(ハンガンテロ)を車両統制した。 その時から雰囲気が変だった。突然、四方から放水が雨のように始まった。気が動転してしまって何が何だか分からなかった。催涙液を入れた放水で、顔に当たって目も開けられなかった。みんな、放水を避けて建物や望楼の中に入った。もともと警察が鎮圧に出てきたら、連帯して来た人たちはその場で連行に応じ、龍山第4区域の撤去民だけが望楼に残って戦うことにしていた。しかし、右往左往の状態だった。私が最後に望楼に入って、発電機を回して電気をつけ、4階に上がった。その中からコンテナに乗って屋上に上がってくる警察を見た。 警察が、望楼の中に入ってきて、1階から連行していった。鉄パイプやゴルフボールで、上がってこられないように防いだ。火炎瓶は望楼の中では投げなかった。火事になるじゃないですか。」

チョン:「その日の明け方にMBCラジオ<ソン・ソッキの視線集中>のインタビュー提案があり、希望が出てきた。放送されれば、じきに対話しようと言い出すだろうし、対話すればじきに解決されるだろうと思った。ところが、警察特攻隊がガラス窓を盾で割りながら鎮圧を開始した。その盾で私の胸を打つようで、怖くて泣いた。その時から夫と連絡が取れなくなった。警察が上がっていき、建物の中にいた撤去班員も恐ろしくなって建物の隣の仮建物の屋根の上に飛び降りるのが見えた。中にいたチ・ソクチュンさんが欄干にぶら下がっているのも見えたし。そして、ある瞬間、火がパッと広がった。夫の姿は見えなかった。」

-午前7時20分、火が出た瞬間を覚えているか?

イ:「警察が、望楼の両側を引っ張って横に広げた。 そのすき間から証拠採集カメラが見えたと思ったら、火柱が下から上へと上がってきた。火が周辺にぱっと広がった時、爆発すると思って窓から飛び降りた。その時の記憶はとぎれとぎれだ。私のそばに太陽のように赤く熱い壁が立っていて顔が溶け落ちる気がしたが…。」

火炎瓶を持った“都市テロリスト”たちの“武装籠城”なる記事が掲載された朝刊が、家々に配達された頃、現実は緊迫していた。2009年1月20日午前6時30分、警察特攻隊3・5梯隊員、南一堂ビル1階階段進入。 6時45分、警察特攻隊1梯隊員10人余 コンテナに乗り屋上進入。7時6分、第1次火災により7時10分、一時撤退。7時18分、警察特攻隊1・2・5梯隊所属の10人余、望楼第2次進入。7時20分、火災発生。龍山第4区域撤去民のイ・サンニム、ヤン・フェソン(当時56歳)氏と、連帯するために望楼に登った他地域の撤去民ハン・デソン(当時53歳)、イ・ソンス(当時50歳)、ユン・ヨンホン(当時48歳)氏の5人と警察特攻隊員キム・ナムフン(当時31歳)警査が死亡した。火災が発生する前に16人、発生後に8人が警察に連行されたり、病院に運ばれた。

-窓から跳び降りた後、どうなったか?

イ:「屋上の壁と望楼の間の80センチ幅の空間に落下し、火が全部消えた後に消防官たちに発見された。」

チョン:「全身が真っ黒だったので死んだものと思い、死亡者として布で包んだと聞いた。ところが、ある消防官が胸に手を当てたところ心臓が動いていたので救急車で病院に運んだ。そうしなかったら、(死亡者にされて)そのまま国科捜(国立科学捜査研究院)に向かうところだった。」

イ・チュンヨン(左)、チョン・ヨンシンさん夫婦は2009年よりもっと笑い、もっと明るく、もっと健康に見えた。傷が癒されたからではない。今も夜はなかなか眠れず、音に敏感だ。夫婦を超えて同志になったお互いが傍にいるからこそ可能なことだった。 8日、ソウル龍山区元暁路1街<龍山惨事真相究明および再開発制度改善委員会>の事務室で夫婦に会った。カン・ジェフン先任記者 khan@hani.co.kr

自分だけ生き残ったという罪責感に、獄中で手紙も書かず

-1月20日は、遺族たちにとって長い一日だった。

チョン:「一日中、望楼に登った人たちの居所を尋ね歩いた。誰も生死を確認してくれなかった。夜になってからようやく、舅の遺体があるという順天鄕(スンチョンヒャン)大学病院の葬儀場に行った。見ても信じられなくて、遺伝子検査を行なうと言ったのに、翌日からイ・サンニム氏と報道された。どうして分かるのかと警察に問いただしたら、その時になって初めて「身分証もあるし、指紋も出た」と答えた。身分証があるならばあらかじめ知らせることができた筈なのに、何故言わなかったのか。その時から、何か隠しているという気がし始めた。 遺体を全部見たのはキム・ヨンドク オモニ(故ヤン・フェソン氏の夫人)だが、手首や足首が切られたり、歯がすべて抜けたり、肋骨が飛び出していた人もいると言った。これはもう火災による死ではなかった。剖検の時間を稼ぐために、私たち遺族を一日中さ迷い歩かせたのだという確信を持つようになった。それで葬儀を遅らせることになった。」

遺族たちが遺体を確認したのは1月21日未明、1時ごろだ。警察は、遺族に知らせずに 国立科学捜査研究院で剖検した後、順天郷大学病院に遺体を安置してからも遺族たちに見せようとしなかった。5人の遺体をすべて見て出てきた<人道主義実践医師協議会>のキム・チョンボム共同代表は当時、「手で顔を覆ったり、うずくまるなど、相当な苦痛だったようだ。遺族たちに、公権力の暴力があったかどうか見てほしいと言われたが、遺体はかなり痛んでいた。 家族に知らせもせずに剖検をしたのは、何か隠さなければならないことがあったのではないかと疑わざるを得ない」と述べた。遺体は2010年1月9日の葬儀の日まで、順天鄕大学病院の葬儀場に置かれていた。

-集中治療室に移されたイ・チュンヨン氏の状態はどうだったか?

イ:「意識がほとんどないまま、3日後に一般病室に移された。肺に煤煙が溜まっていて、先ずその治療を1週間受けてから、検察に逮捕された。脚と背中も負傷していたが、拘束されて病院治療も受けられず、車椅子に乗ったまま検察の調査を受けた。」

-お父さんが亡くなったことをいつ知ったか?

イ:「一般病室に移った日、ニュースを見て知った。窓から飛び降りる前に、他の人たちより前に立って、まるで警察の暴力から守ってやろうとするかのように4階の階段前に立っていた父を見たのが最後だった。ニュースを見た心情は・・・とても表現できない。私にこんなことが起きるとは考えもしなかったことで、とても耐えられそうになかった。恐ろしくて、どうしたらいいか分からなかった。何よりも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。私は生き残った・・・。私があの時、冷静沈着でいたら亡くなったあの方たちから望楼外に避難させてあげなければいけなかったのに。」

2009年1月28日、病院で検察に逮捕され拘束されたイ・チュンヨンさんは、火炎瓶を投げて望楼に火事を起こし警察官1人を死亡させた容疑(特殊公務執行妨害致死)などにより、ほかの撤去民23人とともに起訴された。しかし、警察側の殺人・業務上過失致死など無理な鎮圧に対する嫌疑は証拠不十分で無嫌疑とされた。死に追いやられた撤去民5人は、望楼に登った人たちと共同で警察を殺した加害者に仕立てられた。

-拘束された後、状況はどうでしたか?

イ:拘束されてから出所するまで自分から望んで独房にいた。亡くなった方々に対する申し訳ない気持ちが大きかった。私一人生き残ったという自己恥辱感。妻に手紙も書かなかった。同志たちは死んだのに私だけが生き残ったという罪責感から、妻に手紙を書くのも申し訳なく思った。」

2010年11月11日、最高裁は懲役5年を言い渡した。裁判はどうだったか?

イ:「裁判過程は不当だった。検察は、捜査記録3000ページを公開しなかった。検察が公開していない捜査資料には、警察が無理な鎮圧を認めた内容が入っている。火事の原因も納得がいかない。私たちは望楼の中で火炎瓶を投げたりしなかった。 国立科学捜査研究院は、当時氷点下10度で体から出る静電気も発火原因になり得るとした。当時、望楼の2階で発電機が回っていた。ところが国科捜がその発電機のスイッチをなくしてしまったという。17人の警察が撮影していたのに、火が出た7時20分前後の映像だけは誰も撮ってない。警察の過剰鎮圧は、調査も起訴もされなかった。」

イ・ソンボム ソウル警察庁警備部長は「現場の状況がちゃんと伝えられていたら中断させていただろう。指導部が状況把握できていなくて、十分対応できなかったのが残念だ」と検察調査で述べている。国家人権委員会も警察特攻隊が性急に第2次進入を試みたとし、警察力行使が違法だという意見を裁判所に提出した。検察が望楼の中で火炎瓶攻撃の対象になったと名指しした2人の警察特攻隊員は、裁判過程で「火炎瓶が破裂して火がつくのは見ていない」と証言した。弁護団は発電機や静電気など他の火災原因を提示した。しかし、裁判所は、警察に不利で籠城住民に有利な主張は認めなかった。

刑務所に一人で収監されていたイ・チュンヨンさん同様に、外で遺族・拘束者家族として真相究明と責任者処罰を要求して戦っていたチョン・ヨンシンさんも孤独だった。

-2009年一年を家もなく 街頭で過ごした。

チョン:「2009年は私から多くのものを奪っていった。 私がこれまで信じてきた大韓民国が、これっぽっちのものかと思った。私の生活を守ってくれると思っていた国家が、私のことを、もう必要がなく邪魔になるとして、ゴミ扱いした。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の逝去後、私たちも市庁広場に焼香所を作った。盧大統領の弔問の列は長く続いているのに、私たちの方はがらんとしていた。 国から見捨てられ、国民からそっぽを向かれた感じがした。 人々の足が途絶えると、本当にもどかしかった。 私は一層、私だけでも力にならなければという思いで、オモニたちと夫イ・チュンヨン委員長の傍を守ろうと考えた。」

「あの日の未明に<ソン・ソッキの視線集中>から
インタビュー提案が来て希望が生まれた
放送に出れば対話が再開できるだろうと
しかし、警察特攻隊がガラス窓を
盾で割りながら鎮圧を始めた」

「ニュータウンができれば金持ちになれると思った
彼らの甘言に利用されたわけだが
私たちも一緒に荒唐無稽な夢を見て
開発を煽ったんじゃないかと思う
龍山の最も直視したくない真実だ」

助けくれた方たちは今、江汀(カンジョン)と密陽(ミリャン)に

-政府と葬儀・補償などで合意し、事件発生355日目の2010年1月9日に葬儀を行なった。その後はどう過ごしたか?

イ:「葬式を済ませて気持ちがとても楽になった。 真実が究明できての葬儀ではないけれど、遺族をそのまま放っておくわけにはいかなかった。葬儀を済ませてから、先のことをいろいろ考えてみた。私が望楼から落ちて、すぐ横で火事になっていたにも拘らず無事だったのは「お前は生きて無念な真実を明らかにしてくれ」という亡くなった方々の意思のような気がした。それで勉強した。獄中で、『資本論』のような難しい本も読み、『イム・コクチョン』のような小説も読んで、それまで知らなかった世の中を知ろうと努力した。」

チョン:「私は被害者が逆に加害者・殺人者にされて刑務所にいるのに、彼らを置いて葬儀をすることは腹が立ってたまらなかった。けれども、オモニたちの生活を知っているので我を張るわけにはいかなかった。2009年12月30日に政府と交渉妥結して迎えた新年に、龍山第4区域にあった家も撤去され、義母と私は行くあてがなくなった。気が変になりそうだった。 「私はなぜ、何のために戦ったのか?」と思うと、急に人間が嫌いになった。2010年は私にはなかったも同然の年だ。 毎日お酒ばかり飲んで、廃人のような生活を送った。」

-でも、チョン・ヨンシンさんは2011年から真相究明委の専従活動を開始しているが。

チョン:「京畿道(キョンギド)城南(ソンナム)のウィレ新都市の行政代執行阻止に行った時、龍山にいた撤去班員を見た。「お前ら、龍山のこと知らんのか。龍山みたいになりたいのか」と言っていた。彼らがまだ龍山を勲章にして自慢して歩いている現実を変えたいと思った。その頃、真相究明委が強制退去禁止法を作ると聞いて、活動を始めた。」

友達の友達だった二人は6年に及ぶ恋愛の末に、2008年5月結婚式を挙げた。 結婚生活は8ヶ月で止まってしまった。龍山惨事が二人を引き裂いた。 離別は2013年1月31日、大統領特別赦免でイ・チュンヨンさんが4年ぶりに仮釈放されて終わった。

-出所後、どう過ごしたか?

イ:「葬儀ができるよう助けてくれた方々に挨拶して回った。 市民社会のすべての方が助けてくれたと言っても過言でない。その方たちは今、江汀(カンジョン 訳注:済州の海軍基地建設反対運動の現場)と密陽(ミリャン:765KV超高圧送電塔建設反対運動の現場)にいる。そこは住民間の争い、公権力の弾圧等、龍山と似ている点が多い。痛みを経験したからか、妻と一緒にそのような痛みのある場所をずっと訪ねて回っている。」

-4年ぶりに一緒に過ごした1年はどうだったか?

チョン:「夫が同志になった。(笑) 遺族のオモニたちと拘束者家族の中間にいる私は、これまで話をする場所がなかった。でも今は話せる人がいるからいい。正直言って、オモニたちの前では申し訳ない。同じように苦労したのに、私の夫だけが帰ってきたから…。」

イ:「家内が苦しい時間を耐え抜いて、大きく成熟したと思う。私一人を見て持ちこたえ

、再開発政策を変えさせ真相究明に努力する姿を見ながら、信頼の気持ちも尊敬の気持ちも強くなった。」

チョン・ヨンシンさんの闘いはもう寂しくはない。夫は新しい店を開く代わりに、遺族の一員として一緒に真相究明活動と連帯活動のために走り回っている。二人は「少なくとも5周忌の追悼祭までは、遺族のオモニたちがして来たくらいにはわたしたちもしなくては、亡くなった方たちに面目が立たない気がする」と語った。

-他の遺族たちはどうしているか?

イ:「母(故イ・サンニム氏の夫人、チョン・ジェスクさん)は韓国外大前で弁当屋をしていて、兄は水原(スウォン)で飲み屋を開いた。キム・ヨンドク オモニ(故ヤン・フェソン氏の夫人)は淑明(スンミョン)女子大の前で居酒屋を、クォン・ミョンスク オモニ(故イ・ソンス氏の夫人)は2人の息子とフライドチキンの店をやっている。ユ・ヨンスク オモニ(故ユン・ヨンホン氏の夫人)はソウル市中区巡和洞の撤去闘争を続けなければならない状況。それから、シン・スクチャ オモニ(故ハン・デソンさんの夫人)は体の具合が悪くて他の事は出来ずにいる。

チョン:「キム・ソッキ韓国空港公社社長就任反対闘争で、警察が前に立って2009年の時のように私たちを阻み悪口を浴びせた。ともすれば2009年の再現になるかもしれないという気がして、拷問被害者の集まりである<真実の力>で提案した治癒プログラムに参加した。」

私の家族の幸せと他人の幸せとの間

¬5年が過ぎたが、依然として真相究明と責任者処罰を要求している。事件後、何も変わっていないのか?

イ:「解決されたことは何もない。亡くなった方たちの遺体に他殺の痕跡がある。死の原因と警察の鎮圧過程は再調査されなければならない。責任者も相変らず安穏としている。朴槿恵大統領は候補者時代に真相究明委の質問に対して「真相究明調査が必要だ」と答えた。だが、警察の鎮圧責任者であるキム・ソッキ当時ソウル警察庁長を公企業の社長に据えた。」

遺族の生活は止まってしまったが、警察の鎮圧責任者と検事・判事たちは無事だった。キム・ソッキ韓国空港公社社長が代表的だ。当時、ソウル警察庁長であり警察庁長官内定者だった彼は、事件発生直後に辞任した。しかし、2011年に大阪総領事になったと思ったら、2012年の総選挙に無所属候補として慶尚北道慶州(キョンジュ)で出馬した。イ・チュンヨンさんの最高裁判決の主審だった梁承泰(ヤン・スンテ)最高裁判事は現在最高裁長官だ。

-龍山惨事の本当の原因は何か?

イ:「龍山第4区域が含まれた国際業務地区開発は、ソウル駅から漢江まで続く“ソウル副都心”開発事業に含まれていた。これは当時、次期大統領選候補に挙げられていたオ・セフン前ソウル市長の夢でもあった。ソウル市長時代に清渓川(チョンゲチョン)復元と再開発・ニュータウン事業を進行した李明博(イ・ミョンバク)大統領を引き継いだのだ。再開発で利益と権力を握った李明博政権、それからオ・セフン ソウル市長と警察庁長官内定者だったキム・ソッキ ソウル警察庁長の過剰な忠誠が核心的原因だ。 そして私たちの無知もあるだろう。18代総選挙の時、ニュータウンを公約に掲げた人は全員当選した。開発のニュースを聞けば、「私もそこの土地を買っておくんだった」と言って、羨ましがっていなかったか。実は私もそうだった。ニュータウン開発されれば、全部豊かに生きられると思った。彼らの甘言に利用されたわけだが、私たちも一緒に荒唐無稽な夢を見て開発をあおった。龍山の最も直視したくない真実でもある。

¬龍山(ヨンサン)事件以後、生き方はどのように変わったか?

イ:「以前は、物質的に豊かで、自分の家族だけを考える人生が一番幸せなのだと思っていた。ところが、私はこれまで誰も助けてこなかったのに、多くの人が助けてくれたお陰で葬儀だけでも済ますことができた。これで分かった。自分の家族だけのための幸せは、他人を不幸にすることもあり得ること、そしてみんなが幸せであって初めて、私も幸せになれるということを。それで、後悔していない。やりたい通りにできる今が幸せだ。」

チョン:「2009年以前の生き方が恥ずかしくなった。すぐ隣の龍山5街で撤去闘争をしているのに、知ろうともしなかった。私が少しでも隣人の困難を知っていたなら、こんなふうに無知にやられもしなかっただろうし、不当な仕打ちを受け、無視されたりもしなかっただろう。 今度は私が希望になりたい。 私の行く所はどこでも、苦しみはなくなり幸せが湧き出たらいいと思う。“第2の龍山惨事”という言葉をなくしたい。」

2010年12月1日、南一堂ビル撤去の日、近くのある精肉店を訪ねた。店の主人が言った。「あの建物を見ると、持たざることが罪なんだなと思うが、私はあんなふうに戦うよりは、早く金を稼いで店を設けて出て行きたい」

 龍山を守ったムン・ジョンヒョン神父の話が思い浮かんだ。2010年1月9日の葬儀の前日に会ったムン神父は、ルカによる福音書10章の善きサマリア人の話をしてくれた。道で強盗に遭って倒れていた人を助けたのは司祭やレビ人ではなく、さげすまれていたサマリア人だった。「誰が私の隣人ですか?」という問いにイエスが聞かせた話だ。神父が言った。「強盗に遭った人を素通りして行った人は隣人ではないのだが、この切々とした龍山惨事を見てただ通り過ぎるならば・・・」 龍山は誰が我々の隣人かを問うた。その龍山で、生き残った夫婦は、今度は強盗に遭った人たちの隣人になろうとしている。

キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/620293.html 韓国語原文入力:2014/01/18 10:46
訳A.K(11627字)

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