▲カレンダー 一部手に入れるのがどれほど難しければ、ハルモニたちが笑って泣いたのでしょうか? 韓国を訪問しさえすればカレンダーは買えるが、高齢のハルモニたちには移動もままなりません。インターネット検索ですか? 家にはコンピュータもありません。 韓国企業が主に作る卓上用カレンダーは、文字があまりに小さいしね。 いや、何よりも今まで誰もサハリン韓国人一世たちにとって陰暦カレンダーがどれほど切実なものか、わからなかったのでしょう。
"ハラショー、ハラショー" 去る17日、ロシア サハリン州ウグレゴルスク市の韓国人会事務室にはハルモニたちの笑い声が絶えなかった。 ‘ハラショー’は‘すばらしい’という意味のロシア語だ。
"アイゴー、ありがとうございます。"
"千部も持って来たんじゃ大変だったでしょ"
‘陰暦カレンダー’を一枚ずつめくるハルモニたちの顔は明るかった。 ヨム・チャンウォル(84)ハルモニの表情がこう言った。 陰暦カレンダーを一枚ずつめくっていたヨム ハルモニの視線が4月で輝いた。 4月の背景写真は全北(チョンブク)南原(ナムォン)広寒楼(クァンハンル)の絵のような風景だった。 "素晴らしいね。一度絶対行ってみたかった…"
初伏にはハクサイを植え、中伏は大根を
咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムン)出身のヨム ハルモニは、サハリンに行った父親を探すため母親と共にウグレゴルスクに来た。 元々ロシアの領土だったサハリンには人は住んでいなかった。 1905年露日戦争で勝利した日本は南サハリン(サハリン北緯50度線以南)を譲り受け、‘カラフト’(樺太)と名前を変えた。 1937年中日戦争以後、日本は石炭や材木など資源が豊富なカラフト開発に積極的に取り組んだ。 開発には朝鮮人が動員された。 強制動員の規模は正確には確認されていないが、1945年8月15日解放直後に南サハリンにいた韓国人は4万3000人と知らされている。
ヨム ハルモニの実家の家族は皆1956年に北韓に戻った。しかし、ハルモニは夫と共にサハリンに残った。 ヨム・チャンウォルというハルモニの名前は、日本植民地時期‘吉田ふう子’になり、サハリンがソ連領になると‘ニナ’に変わったが、唯一変わらないのはハルモニの陰暦誕生日だった。陰暦誕生日はハルモニのルーツとアイデンティティの支えになった。
「私の誕生日は陰暦冬至月(11月) 1日です。 うちの子たちは陰暦が分からないので陽暦11月1日を誕生日として祝ってくれます。 その子たちにはこのようなカレンダーもありません。 でも私たちは陰暦で料理を作って食べますね。 朝鮮の人であってロシアの人ではないからやっぱり陰暦でしたいのです。」 ヨム ハルモニは陰暦カレンダーが最高の正月プレゼントだと言って笑った。
ヨム・チャンウォル ハルモニとは違いキム・インスン(80)ハルモニは誕生日を知らない。 「私が11才の時、お母さんが兄さんが病気で故郷に行ったが、便りがそれきり途絶えました。 昔の父親たちは子供たちの誕生日なんて覚えていません。 ただごちそうを食べる日が誕生日だと考えていたでしょう。」 故郷の慶尚北道(キョンサンブクト)清道郡(チョンドグン)に戻って、帰って来られないお母さんは夫と娘たちを思い描いて1946年に病気で亡くなった。 一人になったお父さんは‘もうすぐ韓国に行ける’と期待して再婚しなかった。
1945年8月15日‘解放’はサハリンには訪れなかった。 日本は残留日本人の帰還には努力したが、もはや日本人ではない朝鮮人は放置した。 戦後の復興が必要だったソ連は、サハリンから朝鮮人が去ることを喜ばなかった。 サハリンに強制動員された人々はほとんどが南側が故郷だったが、分断と戦争の渦に巻き込まれた韓国政府は彼らに冷たかった。 解放の代わりに訪れたのは離散の苦痛だった。 植民支配、分断と冷戦はサハリンの朝鮮人を二回捨てた。
陰暦誕生日がなくても、キム・インスン ハルモニは陰暦カレンダーをとても大切に使う。 「栽培する時はカレンダーを見ます。 初伏にはハクサイを植え、中伏には大根も植えます。以前は皆それぞれ自分の畑がありました。」 炭鉱に強制動員された夫と1950年に結婚した後、夫婦は凍った土地が溶ければこまめに農作業をした。 解放後なので国籍もなく、言葉も通じないために仕事を探すことも難しくて、給料もソ連人より少なかった。 家族を養い、売って副収入でも得ようとすれば農作業は基本だった。 海に近い都市では‘潮目’を見るために陰暦カレンダーを求めたという。 毎月陰暦1日と15日には潮の干満の差が最も大きかった。 潮が引いた時には貝や海老をとって食べた。 生きるためにも陰暦は必須であった。
植民地時期、強制的に動員され
冷戦で故郷に帰れなかった
サハリン韓国人同胞1世が
毎年1月になれば求める大事な物は
陰暦が記された韓国のカレンダー
"私の誕生日は陰暦冬至月(11月)1日なんです
うちの子たちは陽暦11月1日に誕生祝をしてくれますが
私たちは陰暦で暮らしています
ロシア人じゃなく朝鮮人なんですから"
1600人の真心が集まって作られた特別なカレンダー1000部
"何だってカレンダーを、来るたびにもどかしく思いました。 そんなにたくさん、どこで手に入れ、またどうやって持って行けばいいのか、と思いました。"
サハリン同胞支援活動をしている地球村同胞連帯(KIN)のイ・ウニョン(36)活動家は2006年から毎年サハリンを訪ねている。 旧正月を控えた1月に訪ねて行くたびに、韓国のカレンダーを持って来て欲しいという‘おかしな’要請を受けた。 毎年12月になれば出前のチキンを注文しても必ず付いてくるような、そんなありふれたカレンダーがサハリンでは貴重品だ。 誕生日も祭祀も、ソル(旧正月)もチュソク(秋夕・旧盆)も全て陰暦で執り行うサハリン韓国人同胞1世にとって陰暦カレンダーは生活必需品なのだった。
陽暦しか使わないロシアで陰暦カレンダーを手に入れることは難しかった。 ロシアの地でキムチも、醤油も、味噌までも作ったサハリン韓国人一世たちだが、陰暦カレンダーだけは作れなかった。 1945年8月15日の解放以前まで、サハリンに移り住んだりサハリンで生まれた韓国人同胞の内、生存者は現在1000人余り。 韓国の家々にはカレンダーが有り余っているとしても、1000部を集めることは容易でなかった。 「昨年は在外同胞財団が作った300部を持って行きましたが、全く足りませんでした。カレンダーは少ししか無いのに、行く先々でもう一つ欲しいと言われ、辛いことも多々ありました。」チェ・サング(41)KIN活動家が話した。
‘カレンダー ストレス’に苦しんだウンギョン氏とサング氏は、昨年仕事を外に頼んだ。 サハリン韓国人同胞用オーダーメード型カレンダーを製作することにしたのだ。 1次目標は陰暦表記だったが、生活空間であるロシアの節気も無視はできなかった。 ロシア陽暦と韓国陰暦を一つにすることにした。 高齢の韓国人一世たちのために数字も大きくすることにした。 生涯故郷を懐かしがっている同胞のために、故国の美を撮った写真も入れることにした。 最大の難関はお金だった。 製作にも配送にもお金がかかった。 必要なお金は1000万ウォン。 写真はイム・ジェチョン写真作家の才能寄付を受けた。 南原(ナムォン)広寒楼(クァンハンル)、慶南(キョンナム)山清(サンチョン)、安東(アンドン)、河回村(ハフェマウル)など、韓国の代表的な名所をカメラに収めた。 昨年下半期からは‘NAVER happy bean’募金も始めた。 11月までに集まったお金は予算には大きく未達だった。 岐路に置かれた。
「当時の募金状況ではカレンダーを作ることはできませんでした。それでも、1世同胞たちと募金した方々に約束したことは絶対に守らなければならないと思い決断しました。」 チェ・サング氏が話した。 幸い募金の支援はその後も続き、1600人の真心と在外同胞財団の支援が集まって‘世の中に一つしかないカレンダー’ 1000部が生まれた。 この特別なプレゼントを配達するため、14日サハリン行き飛行機に乗り込んだ二人の心はときめいていた。
カレンダー同様 待ち望まれる‘サハリン特別法’
20日、ウンギョン氏とサング氏はユジノサハリンスク市の韓国人会老人ホームを訪ねた。 ソウルから来たお客さんがカレンダーを持ってくるからと、零下20度前後の寒さにもかかわらず、20人を越えるハルモニたちが集まっていた。 植民支配と分断、冷戦という韓国の痛い現代史を踏んで生き残った人々だった。 イ・ボクスン(78)ハルモニはカレンダーを見ると顔がほころんだ。 カレンダーを見て一度笑って、ソウルの人を見て二度笑った。 「死ぬ日だけを待っていたのにカレンダーが来ました。 サハリンにいる私たちをもう忘れたと思っていたのに、カレンダー見てとてもうれしかった。 私たちをまだ覚えていてくれたと思えて。韓国から届いたんだとみんなに自慢しました。」 1936年ウグレゴルスクで生まれたイ・ボクスン ハルモニは一度も韓国で暮らしたことは無い。 しかし、ハルモニは陰暦博士だった。 「どれどれ、今度の1月に‘鬼神のいない日’は、9日、10日、19日、20日、29日、30日だね。 家を直しても'事が起きない'(大丈夫という意の北韓言葉で、朝鮮学校で北韓式教育を受けた韓国人一世たちは北韓の言葉に馴染んでいる)、引っ越しも大丈夫な日だよ。 私がいつも暦を見るので子供たちも引っ越しに良い日を必ず私に尋ねます。」 陰暦を読む方法は両親に習った。‘文盲’だった両親はハングルも日本語も読み書きができなかった。 日本語、ハングル、ロシア語をハルモニは家ではなく学校で習わなければならなかった。 しかし学校でも教えてくれない陰暦の読み方は両親から習った。 陰暦はハルモニと故郷を繋ぐ橋になった。
「ロシアのカレンダーは役に立ちません。でも私たちのカレンダーはソル(旧正月)もチュソク(秋夕)もあって、子供の日、父母の日もあるし、大寒、小寒、啓蟄、雨水もあります。 私たちの名節を見ればうれしくなりますね。 ああうれしいなあ。」イ・ボクスン ハルモニと一緒にカレンダーを見ていたソ・ユングム(80)ハルモニが言った。 韓国の歌を聴くのが娯楽だと言うソ・ユングム ハルモニの愛唱曲は‘夢にまで見た私の故郷’だ。 ソ ハルモニは今は陽暦誕生日だけを使っているが‘故郷’の文字さえあれば全部良いと言って、韓国のカレンダーを喜んだ。 カレンダーは懐かしさそのものだったわけだ。
イ・ボクスン ハルモニが待っているうれしいプレゼントはカレンダーだけではない。 「ふたすら寒くて空腹で、生きるために1978年にソ連の国籍を受け取りました。 韓国の国籍をもらいたいのに、どうしてくれないんですか? それが無いから補償もしないと言うし。 子供たちと別れたくないから韓国に行かないだけなのに、来なければ一銭もくれないと…。」 ソ・ユングム ハルモニも横から加わった。 「日本人はキムチ臭いからと言って無視するし、ソ連の人々はなぜ帰らずにここで我々の血を吸うのかと言って蔑視するし。 佗びしくて泣いたことも多かったけど、今は韓国まで私たちを蔑んでいるいるみたいです。」 1945年8月15日以前にサハリンにいた韓国人1世ならば、望みさえすれば韓国に行くことはできる。 韓国・日本の政府が1997年から施行した永住帰国事業のおかげだった。 今までに4000人余りの韓国人1世が韓国に戻った。 1000人余はなつかしい故国の代わりに冷たいサハリンの地を選んだ。 子供のためだった。 現在、永住帰国対象者は韓国人1世とその配偶者、障害のある子供1人に制限されている。 故郷と家族を選択しろという残忍な要求に、イ・ボクスン、ソ・ユングム ハルモニは後者を選択した。
2012年11月、チョン・ヘチョル民主党議員は永住帰国対象者を子供1人とその配偶者まで含めるよう拡大して、残留サハリン同胞を支援する内容をその核心とする‘サハリン同胞支援に関する特別法’を発議した。 17代、18代国会に続いて3回目の‘挑戦’だ。 来月の臨時国会での通過を目標にしているが、国会の反応はぬるい。 政府部署も業務重複、他の海外同胞との公平性、ロシアとの関係悪化などを前面に出して反対している。
「法の一つも通過させられなかった私たちが、たかだかカレンダー一つ持って来たんです。それでもそのカレンダー一つでご苦労さん、ありがとう、来年また会おうと言われると…」イ・ウニョン氏が涙を浮かべた。サハリン韓国人1世のためのオーダーメード カレンダーを作るのにも少なからぬ時間がかかった。今回は充分に1000部も作って来たけれど、‘もう一つ欲しい’とせがんだハラボジ(おじいさん)、ハルモニに全部は上げられなかった。 カレンダーが足りなかったわけではなく、受け取る人がこの世にいなかったためだ。 69才以上の高齢のサハリン韓国人1世には残された時間が長くない。 彼らが永遠には待っていられないのはカレンダーだけでないだろう。
サハリン/キム・ミンギョン記者 salmat@hani.co.kr