バスの中ではありとあらゆる事情が絡まりあっている。 様々な事情、各々の背景を有する人々が毎日バスに乗り込む。 1000ウォン内外の料金さえ出せば誰でも自分の権利を享受して当然だ。 ソウルから安養(アンヤン)を往復するバス運転手シン・サンジン(仮名・52)氏にとって、このような確信は一層確固としたものだ。
「お待たせしました」バスのドアが開く前から明るい声がまずお客さんを迎える。バスに乗り込もうとしていた外国人の赤銅色の笑みから、韓国人の歓待に不慣れであることが感じられた。「このバスは大学と工業団地をまんべんなく巡ります。外国人労働者と留学生たちが大勢乗ります。私は外国人には意識的に特に親切に挨拶するんです」シン氏は3日、ソウルの九老(クロ)工業団地を通りながらこう言った。
「妊婦やお年寄りがバスに乗れば荷物を持ってあげるし、障害者の方が乗り降りする時には
お手伝いするようにしています。少なくとも私が運転するバスだけは、弱い人たちにとって心地よい空間であってほしいからです」
就職しようとしたが拒絶されるばかり
過去を問題にしない会社に就職
「私たちの社会が差別をなくしてくれるならば
他の人を助けながら生きていけるのに」
シン氏が“あふれんばかりに”親切な運転手になったのには訳がある。 彼にとってバスの運転手としての人生は、3年前に奇蹟のように与えられたものだった。
彼は死刑囚だった。 囚人番号2225。刑務所の中ですら死刑囚の烙印は最も深く刻まれていた。シン氏の胸には赤い名札が縫い付けられていた。白い名札をつけた他の囚人たちと“未決囚”身分である死刑囚とは区別された。 死刑求刑と同時にかけられた手錠は、裁判が終るまで、食事の時も寝る時も彼の両手を縛っていた。
彼の運命は他の人々より低いところから始まった。 “妾が産んだ子供”というレッテルが付いて回った。 家族まで彼を冷遇した。 「自分はなぜ平凡に生まれることができなかったのか?」子供のころ彼を悩ました問いだ。 差別と蔑視は、何度経験しても慣れることが出来なかった。 20余年前の1991年、自身と母親を辱めたことに激憤した彼は親族2人の命を奪った。
すべてが終わってしまったように思えた彼の人生にも、一縷の希望が残っていた。懺悔の日々の末に死刑囚から無期囚への減刑の機会を得たシン氏は、刑務所で各種の資格と賞状を30余り取った。 彼の努力に妻と二人の娘の真心が加わって、2010年3・1記念日特赦で釈放された。 社会が許した最初の機会であった。
自立は容易でなかった。 かつてタクシーとバスを運転していた経験を生かして新しく資格を取った。 バス会社10社余りの門を叩いたが、拒絶された。 面接で良い感じのやりとりがあっても、採用の連絡は来なかった。 「密かに犯罪経歴照会をしたんでしょう。 医療保険書類にも収監期間は「特殊期間」として表記されます。」日雇いの口も探すのは難しかった。
出所者が感じる社会生活の困難性
1年6ヶ月目にして2番目の機会が訪れた。 過去を問わないバス会社だった。 「資格、人柄、過去のバス運行経歴だけを見て働き口をくれた有難い会社です」 6ヶ月の修習期間の末に彼は正職員として採用された。 現在はバス運転手であり、また法務部の矯正委員として活動している。
去る4月、シン氏は国会で推進中だった「包括的差別禁止法案」の立法が座礁したというニュースを聞いた。 彼が理解するには、差別禁止法とは自分のように前科や出生による差別を受けないよう国が保障するという法案だった。 差別禁止法が制定されれば出所者に対する就業差別も禁止されるだろう。
「一流の民主国家になるには、誰でも努力しただけ機会を手に入れられる世の中にならなければならないはずなのに…。 私のような前科者だけでなく、すべての人が互いに能力と内面、現在の姿だけ見て接してくれるならば、どんなに良いでしょうか。」
シン氏は依然として恐れている。 「同僚たちは私のことをただ、事業に失敗した家長だと思っています。 後になって知られでもしたらどうしようと、戦々恐々としています。 ようやく私を受け入れてくれ、誠実に生きている娘たちの荷物にはなりたくありません。」ずっと明るかった彼の顔に陰がかかった。 差別禁止法案はシン氏の恐れを消すことができるだろうか。「私の肩身の狭い過去によって差別を受けなくても良いのだと私たちの社会が言ってくれるならば、他の人たちをもっとお世話しながら生きていくことができるでしょう。」
オム・ジウォン記者 umkija@hani.co.kr